01.有名大指揮者の落日

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 遠くのほうから、陽気な鼻歌らしき旋律が聞こえてきた。  パッヘルベルのカノン――鼻歌の主は歩調に合わせて、細かなパッセージをもの凄い勢いで、かつ正確な音程で奏でている。徐々にその旋律は大きくなり、最後の角を曲がる頃になるとラララと歌いだしたから、たまらない。  二人は恨めしい表情をしながら、目の前に現れた場違いなほどに陽気な男へ、揃って顔を向けた。 「いったい何の騒ぎなんだい? 執事のオっさんから電話もらったんだけど、俺さあ、起きたばっかだったから、あんま聞いてなかったんだよねえ。ここに来いってことは分かったんだけど」  市内で楽器店を経営する、芹沢家に縁の深いこの青年、名前は高野和久という。  本職はピアニストであり、今夜の記念演奏会で、協奏曲のソリストを務めることになっている。  高野の実年齢は三十八歳。すでに青年という域を越えているが、彼の涼やかな顔立ちと無駄のない身体つきで、確実に十は若く見える。外見だけではなく、精神面や生活面においても、大人の落ち着きがまるで感じられない。  そんな高野の出で立ちを、富士川は半ば呆れ顔で見回した。 「急いで来てくれたのは結構なんですが、着替えくらいしてきたらどうなんですか?」  軽蔑の眼差しを向ける富士川の横で、華音も驚きを通り越し、思わず呆れ顔になる。 「高野先生、いい歳して恥ずかしくない? ここまで、その格好で来たの?」  高野のいい加減ぶりは、富士川や華音もある程度理解していたつもりだった。しかし、さすがに皺だらけのパジャマ姿で来られると、驚愕と困惑を隠せない。  しかし、当の本人はあくまで飄々と答える。 「どうせ車なんだし、何で恥ずかしいのさ。全裸じゃあるまいし。というか、執事のオヤジがすぐに来いっつうから。それよか富士川ちゃん、何で今頃ここにいるのさ? それにそうだ、ノン君だって学校はどうしたんだい?」  高野は首を傾げている。  演奏会のある日は、朝から会場へ出かけて入念なリハーサルを欠かさない富士川が、本来ならここにいるはずがないのである。  富士川は眼鏡の奥の、切れ長の目を伏せた。 「芹沢先生が倒れられたんです。意識が戻らなくて……今、お医者様に診ていただいているので、それを待っているところです」 「私も電話もらって、学校からいま帰ってきたばかり」  立ったまま二人を見下ろしていた高野は、事情を聞いて何か思うところがあったらしい。尋ねるべきかどうかを迷うような、わずかな沈黙が流れる。  やがて、高野は重々しく口を開いた。 「ねえ、富士川ちゃん。今夜の演奏会、どうするつもり?」  富士川は高野を見上げた。その表情には精気がない。 「どうするって……そんなこと、俺に言われても困ります」 「おいおい、そんなこと言ってられないよ? とにかく時間がない。最悪の事態を想定して、手を打っておいたほうがいい」 「公会堂に楽団員を待機させてあります。あとは芹沢先生次第です。もし駄目なら、演奏会はキャンセルします」  その一番弟子の返答は、高野の予想に反したものだったらしい。面食らったような表情で、再度聞き返す。 「う、嘘? こんなでかい演奏会を当日キャンセルすんのは、もの凄おおおく大変だよ? 払い戻しとかするなら、それ相応の現金も用意する必要があるし、少なからず苦情も出るだろうから、その応対をする人もそれなりの人数が必要になるしさ。富士川ちゃん、それでもいいの?」  高野はこの業界でそれなりのキャリアを積んでいる。そのため、演奏会の運営というものがどんなに大変であるかを、それなりに心得ている。  もちろん、富士川も充分承知しているはずなのであるが――しかし、今夜の演奏会は特別な意味を持つものであることが、一番弟子の決断を鈍らせている。 「キャンセルすると決まったわけではないんです。縁起でもないことを言わないでください。俺は芹沢先生が指揮をとると信じていますから」  富士川の真剣な眼差しに、高野は説得を続ける気を失くしたようだ。肩をすくめて軽くため息をつく。  華音は身を硬くして黙ったまま、ただ成り行きを見守っていた。  重苦しい雰囲気が続く中、高野は思い出したように富士川に尋ねた。 「ウィーンへは連絡したの?」 「いえ……一応報せておいたほうがいいでしょうか。無駄でしょうけど」
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