50歳、冬

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「こんな形で終わりを迎えてしまってすまない」 僕は隣に座る彼女に囁くように言った。彼女は首を振りながら答えた。 「今更何を言ってるんですか。初心に帰ったみたいですね、この映画館」 「あの日は、スクリーンより君の横顔を こっそりと見ていたよ」 「私も映画どころじゃありませんでした。あなたとこうして並んで座っているだけで緊張してしまって、幸せで」 「こんな僕をどう思っていた?」 「あなたが私のおじいちゃんと変わらない歳だと知った時はとても信じられなかった。でも私の気持ちに変わりはありません」 「・・・妻が生きていたら、子が生きていたらって今でも考えてしまう。君には申し訳ないと思っていた」 「当たり前ですよそんなこと。世界で一番大切な人を簡単に忘れられるはずがないでしょう?」 「でも、今は君が一番だから」 「ありがとうございます、私、とても幸せです」 それからは互いに黙って映画を観た。 ストーリーは中盤に差し掛かる。だいぶ昔に観た映画よりも画質が美しくてまるで自身が体験しているような気分になる。それでも味気が薄くなっている感じがした。映画の内容なんてどうでもよかった。ただこうして彼女と並んで座ってさえいれば、それで。 「僕がいなくなったら、君も僕みたいになってしまうのかな」 大切な相手を亡くした時の絶望を、彼女にも味わわせてしまう。自分の身を裂かれるより辛かった。 長い沈黙の末、僕は声を漏らした。 「憧れの人と同じ気持ちになれるなんて幸せですよ。でも、いくら準備が整ったって、あなたがいない世界は寂しい。心の準備なんてできない。それは、あなたがいなくなることを認めるのと同じことだから。でも、あなたには大切な人が待っているから、きっとこの別れは怖くないはずです」 そう言うものの、彼女の声は震えていた。 「僕の命の時間は、本当はもっと前に終わっているものなのかもしれない。幼少期より病弱だったから。この心臓ももう、休ませてあげないとね」 「私がおばあさんになるまで待っていてくれてもいいんですけど」 「そうしたら君の方が年上になって、いつか立場が逆になるかもしれないね」 映画は終盤を迎える。ラブストーリーの結末はハッピーエンドで、二人は末永く幸せに過ごした。僕らも同じ時代に生まれ、同じ時間を生きられていたら、どんな未来があったのだろう。 エンドロールが流れた。八十五年などあっという間で、スクリーン上へ消えていくキャストの名前のように速やかに過ぎた。そして、終わりの時間がやって来た。僕にもう明日はない。この映画館で永遠の眠りにつく。眠りの先に何があるのかはわからないが、不思議と不安はなかった。それは彼女の手が僕の手を握ったからだ。 「そろそろ時間だね」 僕は手を強く握り返した。心臓は緩やかに速度を遅くさせていく。眠気が生じた。僕は、ゆっくり彼女を抱き締めた。 彼女の香りがとても近い。 「景隆さん、心臓が、止まっちゃう。まだ、もう少しだけ」 彼女は泣きながら僕の抱擁を受け入れた。 「・・・やっと、君に触れられた」 その言葉で彼女は僕の背に手をまわして、頬ずりをした。頬は涙で湿っていた。僕がいなくなることで涙を流してくれる人がいる。それだけで十分だ。 僕は力を振り絞り、もう一度強く彼女を強く抱き締めた。柔らかくて暖かい、久しぶりの人の温もりだった。 「天にも登る気持ちって、きっとこのことを言うんだね」 この時、僕は今まで生きてきて本当に良かったと思った。 これが、これこそが僕が生まれた意味そのものなんだと。 彼女の髪を撫でて、額にキスをする。 「いいかい、僕のことは忘れて幸せになるんだよ」 「あなたを忘れたら、それは私の不幸ですよ。ねえ、愛しています。この先もずっと」 彼女は僕の頬にキスをする。妻と子を失ってから、すっかり枯れたと思っていた涙が両目から溢れ出て仕方ない。 「まったく、君らしいよ」 僕らの元に少年と女性がやって来ていた。僕の要望通り看取りをしてくれるらしい。ありがとう、とても感謝している。 眠気が増す。僕は目を閉じた。彼女を抱きしめる力が徐々に弱まっていく。 「僕と、出会ってくれてありがとう」 「こちらこそ、ありがとう、ございます」 「またね」 「ええ、また・・・」 僕は、長い長い人生の末、巡り会った最愛の人の胸の中で眠りについた。
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