60歳、春

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60歳、春

晴司を救う方法をずっと探してきた。何十年経っても病気の研究は進まず、解明ができない。たった一つしか治す方法がない。 いざとなって私は恐ろしくなる。彼の鼓動のストッパーになりたくない。 だから、晴司がどうか私を一番に想わないように年々冷たさは増した。 刻々と、何かのタイムリミットが近づいている、そんな気がしてならない。私も年老いたということだろうか、聴力が次第に衰え、音を聞き取ることが困難になっていく。 彼の幼い声が遠くなっていく。 「起きろよ」    小さな手が私の肩を揺らした。 私は寝ぼけ眼でその姿をとらえる。四十五年前から変わらないままの少年がいた。 「ああ、来ていたの」 彼は私の家にあがっていた。社会人になってからずっと独りで暮らしているアパートだった。たぶん、私はここで一生住んでいくと思う。両親も亡くして、帰る場所もない。 それは晴司も同じだった。彼の母親もまた、一昨年の冬に脳の病気で死去した。私達の身寄りは互いしかない。正しい関係は存在しなかった。兄妹でも恋人でも息子でも孫でもない、あの日のままの、同級生でしかない。 「魘されていたみたいだった」 「怖い夢を見ていたの。嫌だわ、私ったら子どもみたいね」 「俺に対する嫌味かよ。無用心だと言っただろ、玄関の鍵は締めなくちゃ」 「あら、最近忘れっぽくなっちゃって。つい閉め忘れていたわ。それにこんなおばさんの家に訪ねてくるなんてあんたくらいだもの。しかし三月なのに寒いわねえ」 私は晴司にお茶を出してこたつの中に再び足を入れた。近頃はエターナルハート者を救う活動が急激に減った。晴司はまだ独りで仕事をしているのかもしれないけど、私は身体の言うことがきかなくなってからは消極的になって、今のようにわざわざ家を訪ねて声をかけられても協力できることは少ない。本音を言えば、もう私に活動は無理だ。そのことを朝地に告げたら、彼は幻滅するだろうか、接点がなくなって会うことが減ってしまうのではないだろうかと恐れて、私はわざと話題をエターナルハートから逸していた。 「・・・でね、生徒が言うの。私がお母さんだったらしつけが厳しくて箱入り娘 になってしまうって」 六十歳。すっかり古株の教師になった私はあと数カ月で定年退職を迎える。仕事であった出来事を楽しく披露できるのは朝地しかいなかった。彼はいつも無愛想に私の話を聞き流してくれるのだが、今日はなぜか寂しそうにして口角をあげるだけだった。いつもと様子が明らかに違う。 「どうしたの? 元気がないじゃない」 私は生徒にするように、つい晴司の肩に手をかけようとした。そこではっとして誤魔化すように、手をこたつの中にしまった。 「ずっと、謝りたかったことがある」 それは悪戯をして大人に叱られる子どものような印象だった。今までにない態度に私は恐縮してしまう。  「お前の人生を俺が奪ってしまったことだ」 何を言っているのか理解できなかった。 「どういう意味?」 「俺があの日、横断歩道を進まなかったらお前はこんな未来じゃなかったはずなんだ」 「どういうこと?」 「俺がこんな病気じゃなかったら、お前を巻き込むことはなかった。結婚して子どももできていただろうし、こうやって独りで暮らすこともなかったはずだ。人殺しなんて、罪深いことをたくさんさせてしまうこともなかった」 「何を言って・・・」 晴司の手が私の左側の髪を撫で、耳にかけた。手を伸ばされた時にすぐにでも避ければ良かった。 「俺が気づいていないとでも? お前の見舞いに行った時からわかってたよ」 私の左耳に付けられた補聴器が顕になる。私は慌てて耳を押さえて後ずさりする。怒りと恥と悲しみの感情が混ざり、私の体温は一気に上昇した。 「突然なんなの? 人生を奪ったとか、こんな未来じゃなかったとか、あんたらしくもない! 私の生き方を幸か不幸かなんて勝手に決め付けないで! 私達はたくさんのエターナルハートの人を救ってきた。まさか人殺しだなんてあんたの口から聞くとは思わなかった!」 白髪の初老の女が、高校生の男の子を叱りつける最低な光景。本当は同じ歳で、もしかしたら別の関係になれていたかもしれない同士。 悔しくて仕方がなかった。なぜ、どうしてという皮肉が今更になって爆発する。 晴司は興奮する私に抱擁してきた。頭が真っ白になる。さっと血の気が引いて、気がついたら晴司の身体を押し飛ばしていた。 「駄目!」 押し飛ばされた晴司は棚にぶつかり、 飾っていた花瓶を落として激しい音を立てた。彼は割れた花瓶の上に尻もちをついて頭を垂れる。 「ご、ごめんなさい」 晴司の右手は割れた欠片で傷つき、血を流していた。私は急いでハンカチで止血しようと彼に触れると、乱暴に手を払いのけられた。 「どうせ、頭が叩き割れたって死なない。こんな傷どうってことない」 「でも・・・」 「何もかもお見通しなんだよ。左耳が聞こえなくなってることも、俺を死なせないためにわざと避けていることも」 晴司には全て悟られていた。私が彼のためを思って隠していた秘密を。でも彼にとってその行動は苦痛を与えることに過ぎなかった。 「もう潮時だとは思っていた。木暮は俺といたらいけない。俺の病気がこれ以上、人を不幸にしたらいけないんだ」 こんな台詞を言わせてしまうほど追い込んだのは私。 何度も自分の感情を押さえ込んできた。ずっと耐えてきた。この人を決して愛さないように言い聞かせてきた。でも、我慢はとうに限界を超えていたのだ。 そう、お互いに。 「晴司も、同じ気持ちだったの?」 彼は俯いたまま黙っていた。 「人に触れないで生きるってのは、結構辛いもんだよ」 永遠に生き続ける恐怖と、終りを迎える恐怖を抱えて生きる。てっきり晴司はそんなことないと、安心していた。けれどそれは私の勝手な解釈で、目の前で小刻みに震える彼を見て、私は自分がとんでもない愚か者だと知った。 「私は、あんたを愛さないようにと必死だった。触れないように、一定の距離を保つことに集中していた。私が、あんたを殺してしまわないように。でも、あんたが私を一番に想わなければ大丈夫なのよね?」 私はゆっくり彼に近づいて恐る恐る触れようとした。すると彼はすぐに立ち上がり離れていった。 「手遅れだよ。どうやら俺は、随分前からお前が一番に考えるようになっていたみたいだ」 こんなに顔を歪めて苦しそうにする様を、私は初めて目の当たりにした。指先一つで脆く消し去ってしまうほど弱々しい存在に感じた。 「最近、ばあちゃんの顔が思い出せなくなっているんだ。どんな声をしているのか、どんな手をしていたのか。俺の中でもう一番ではなくなってしまっているんだよ」 「どうして、そんなこと言うの? そしたら私達、想い合っているのに一緒にいられなくなっちゃうってことじゃない。私は、あんたに対する想いを、墓場まで持っていくつもりでいたのに」 今日、私の夢は叶った。交わした約束はその通りになった。でも心が満たされない。晴司の永遠に動く心臓を止める力を持っているのは、この世界で私だけになった。 黄金色に輝く宝石を、壊す権利が与えられたって嬉しくも何ともない。 「活動を再開するわ、きっとあんたが治る方法が見つかるはずよ。だから、私の傍からいなくならないで。あんたは中身だけが変わって、私は外見だけが変わった。そんなに大きな違いなのかしら? 病気が人を別離させるなんてそもそも間違っていたのよ」 涙を流して声を張って願っても、彼は首を横に振る。 彼は口を動かす。しかし声が聞き取れない。左耳の補聴器が取れて床に落ちていることに、私は気づかなかったのだ。 今思い出せば、彼はいつも私の右側から声をかけてくれていたように思う。 「ねえ、何て言ったの? もう一度言ってみて」 晴司は最後に笑って、玄関の方に駆けて行った。 「待って! 行かないで!」 私はよろめきながら彼の後を追う。私の足腰は若い少年にかなうはずもなく、玄関の外に出て、門まで着いた頃にはその姿は消えていた。 私は冷たい敷石に膝まづいて泣いた。自分の泣き声も聞こえない耳は、大切な人の声すら感じ取ってくれない。 でも、これで良かったのかもしれない。彼が私から離れたことで、命が終わることはないのだから。 私は少しでもあなたを救うことができ ていたのだろうか。その答えもわからないままお別れをした。いつかこの日を後悔したとしても、あなたがこの世界のどこかで生きているならそれで良い。 「あんたは私の一番の人よ。絶対に忘れないから。あんたも、私以外愛しちゃだめよ」 春。ベランダで沈丁花が咲いている。甘い香りが漂う。昔母と育てた事のある懐かしい匂い。 「沈丁花の花言葉には栄光、不死、不滅、永遠、あと実らぬ恋があるのよ」 「実らぬ恋か。お母さんは、実ったの?」 「そうね、実ったけど、枯れちゃった」 私ははっとして、聞いちゃいけないことを聞いたと反省した。母にとって父は花だったからだ。父は死んだ。だから恋も枯れてしまったのだ。 文字通り、父にありったけの愛を注いだ母は、再婚して誰かを愛することなく八十八歳、米寿を迎えて父の元へ逝った。 「ギリシア神話に沈丁花の話があるわ」 「どんな話?」 「キューピットのエロスが弓矢で遊んでいたところに、戦の神様アポロンが通りかかった。アポロンは矢で遊ぶのは危ないってエロスを叱ったの。怒ったエロスは、手元にあった金の矢をアポロンに、鉛の矢をたまたま近くにいた美しい娘ダフネに放った。金の矢には恋の魔法、鉛の矢には拒絶する魔法が込められてて、アポロンはダフネに恋をし、ダフネはアポロンを拒絶した」 「ひどい話だね」 「ダフネは自分の姿を変えてでも、この男から逃れたいってお父さんで川の神様であるペーネオイスに頼んで月桂樹へと変えてもらうの。アポロンは悲しんで、でもダフネの近くにいたくて、月桂樹の葉で冠を作り、最期まで冠をかぶり続けたのよ。沈丁花は神話に出てこないけど、月桂樹の葉と似ているから月桂樹と同じ神話が使われたんだって」 「お母さんがそんな話知ってるなんてすごいね」 「お父さんから教えてもらったことよ」 私も母のように生涯一人の人を愛し続ける人になりたいと思った。 ねえ晴司、沈丁花も神話も、私達みたいね。 あなたはダフネ、私はアポロンだったのに、今は私がダフネ、あなたがアポロンになってしまった。 姿形なんて関係ない、ただ傍にいるだけで良かったのに、きっとお互いのことを想いすぎて耐えられなくなったのよね。触れたくて、仕方なかったのよね。 私はもう、あなたの幸せを祈ることしかできない。 私はどんどん姿が変わっていく。もしかしたらあなたのことも忘れてしまうのかもしれない。だけど、どうかあなたは私のことを覚えていて。  それ以来、三十年間私は彼と会っていない。    
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