90歳、晩春

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90歳、晩春

変わらないことが幸せなんだと無理やり自分に言い聞かせていた。でも変わらないことを不幸だと嘆く者もいる。結局どっちが幸せなんてわからない。 鏡に映る自分がいつまでも変化がなくて、相変わらず絶望するほど無愛想で、決して面白みもない。 そんな俺にいつまでもくっつく女の子がいた。いつの間にか年の差が離れて、母親の亡くなった年齢を追い越してしまった。 俺の憧れる成長。 昔、夢があった。スポーツマンになるとか宇宙旅行に行きたいとかそういうことじゃなくて、普通の大人になりたいってこと。俺にとって普通の大人は、仕事をして恋愛をして結婚して子どもを育てて年老いて死ぬ。有名人にならなくてもいい、特別なんていらない。 俺の夢は十五でぶっ壊れた。 芽が出て木になり、実を生やしてやがて腐っていく過程があるとすれば、俺はまだ芽のままでこれから変わることはない。あるいはまだ種のままなのかもしれない。 いつの日だったか、母親に化物と言われたことがあった。苦しさ紛れの、俺に対する哀れみの悲鳴だったのだ。 母親が老けて死んだ時はとても安らかだった。まるで自身との決別を喜んでいるような。 羨ましかった。俺は俺が嫌いなのに、永遠に別れることができないのだ。 「あんたは中身だけが変わって、私は外見だけが変わった。そんなに大きな違いなのかしら?」 最後に別れた日、木暮咲夜子がそんなことを言った。 そうだな、それだけの違いで俺は随分と悩まされてきた。ひょっとしたら中身まで幼い少年のまま時間が過ぎていったのかもしれない。実際は醜い爺さんなのに。 母親といい、木暮咲夜子といい、俺を想う奴は俺をわざと避けるようになるんだ。   電車に揺られてうたた寝をしていたようだ。アナウンスの声で目が覚める。 ばあちゃんからもらった昔話の本は、ひどくボロボロでとても読めたもんじゃなくなった。それでもお守り代わりにいつも持ち歩いている。 昔、クラスメイトに取り上げられた時、木暮咲夜子が取り返してくれたんだっけ。あの時は礼を言えなかった。 少しだけ昔を思い出してくすりと笑う。   自然に、無意識に、不随意に、ここまできた。 少量の荷物を持って三十年ぶりに彼女へ会いに行く。九十歳になった彼女は身も心も弱りきってしまい、もう長くはないそうだ。施設に入所する時、保護者を勝手に俺の名前にしたらしい。 長年、誰からも連絡のなかった携帯電話が鳴った時は驚いた。木暮咲夜子からかと思ったら施設の職員から連絡がきて、もう時間がないと知らされる。住所を教えてもらい、俺は長旅を終えて施設に到着した。 久しぶりの再会を期待してか、心臓が早く脈打った。 「有明晴司です。木暮咲夜子さんに会いに来ました」 施設内に入り、窓口から事務の女性に声をかける。 「案内します。どうぞこちらへ」 「あの、それで、今はどんな様子なんですか?」 女性は顔を曇らせて説明をしてくれた。 「認知症が進んでしまって、耳も遠くて意思疎通が困難です。お食事も召し上がらず日に日に弱っている状態です。嘱託医によると、今後は厳しい状況だと・・・」  「そうですか」 「しつれいですが、お孫さんですか?」 孫か。もうそんなに差ができているんだな。 俺はくすりと笑う。 「そんなところです」 案内されるがままに足を進める。長い廊下の終着点、奥の部屋に木暮咲夜子がいる。 「こちらのお部屋になります」 「あ、待って」 ドアをノックしようとする女性を引き止める。 「ここからは僕が独りで行きます。大丈夫です。何かあったらコールを押しますから」 女性は怪訝そうにしてから事務室へ戻 って行った。 俺は一度息を吹いてからドアをノックする。中から声は聞こえない。ゆっくりドアを開けると白髪の女性がベッドに腰をかけた後ろ姿があった。窓の外を眺めているようだ。外には緑色の山々が広がっていた。甘い匂いがする。近くに白く花びらがたくさんある丸い花があった。なんという名前かは知らないが匂いはこの花からしていた。花びらは萎れていて間もなく枯れそうではあった。 景色の良い部屋だったが、ベッドとカーテンしかない殺風景な部屋だった。 ずっと独りでここにいたのか。 俺は彼女の横に立つ。それでも彼女は俺の存在に気がつかず、窓に向かって両手を伸ばしていた。 「咲夜子」 声が聞こえるはずがないのに、名前を呼ばれた彼女はゆっくりと俺の方を向いた。顔は皺だらけで、やせ細った身体がとても小さかった。 彼女は話すことなく、少しだけ微笑んで頷いただけだった。面影は確かにあった。刻まれた皺の数が月日を物語っている。それだけ俺は彼女を待たせていたのだ。 きっと俺のこともわからない。 「待たせてごめん。隣に座っていもいいか?」 伝わることのない声をかけてから俺は咲夜子の右隣に腰をかけた。 「同い年なのに、もうこんなに差が出たんだなあ」 咲夜子はずっと頷いたままだった。俺のことはきっと忘れてしまっているのだろう。 「あの日から俺はどうにか独りで生きてきたよ。やっぱりこの姿は不便だ。せいぜいアルバイトしかできなくて、なかなか大変だった。土産話があるんだ。この三十年の間に、研究が進んでエターナルハートの治療法がやっと見つかったんだ。治療を受ければ、俺はこれから成長して大人になることができる。でも、お前とは時間が離れてしまった。どうだ、これからまだ生きてく価値が果たしてあるのか?」 咲夜子は頷くのをやめて、俺の顔を見上げた。薄い茶色の瞳が見透かすように俺をまっすぐ見つめる。 するとひんやりとした手が、俺の頬をなぞった。 ああ、なんだ。 俺が今日まで生きてきたことは、こんなにも大きな価値があったのか。 「そうだな、俺ももう独りで生きていくのに疲れてしまったよ」 咲夜子の身体を両腕で包み込む。彼女は驚きもせず俺を受け入れた。 いつの間にかこんなに小さくなって、祖母のような存在になってしまった同級生。俺はこれから自身を失うことに恐怖は感じなかった。 心拍数が緩やかに落ちていく。静かに目を閉じると、俺の背中に細い両腕がまわされて目を開ける。そこには十五歳の少女がいて、俺の額に自らの額を押し当ててきた。 「じゃあ、私が有明君の一番の友達になるよ」 幼い少女の声が蘇る。 あの時からきっと一番になっていた。だからわざと冷たくして俺を愛さないようにと願った。咲夜子が傷つかないために。 同級生から始まり、やがて姉のような存在になり、母親のような存在になり、そして祖母のような存在になった。愛さずにいられるはずがない。もっと、一緒にいれば良かった。 最期にもう一度、その存在を強く抱き締める。 「そうだ、お前が一番の友達で、一番の姉で、一番の母で、一番の祖母で、一番の、恋人だよ」 拍動が止まっても、心だけは永遠に有り続ける。 交互に重なり合った心臓の拍動は次第に消えていく。 風に揺られて落ちる葉に見守られながら二人で眠った。 そんなに長くは眠らない。きっとすぐに会える。ほんの少しのさようならだ。 新しい世界で、新しい二人で生きていこう。 次に目が覚めた時は、また懐かしい少年少女の姿で。      
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