15歳、梅雨

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15歳、梅雨

無時間性心臓運動病。その名の通り心臓の拍動が永久に止まらない病。通称、永遠の心臓「エターナルハート」とも呼ばれる。 発症率は三千人に一人という希少疾患。原因も治療法も解明できていない完治困難な奇病。驚愕すべき症状は、発症した年齢の姿のまま成長が止まってしまうこと。いわゆる不老不死だ。 痛みなどの苦痛はないらしいけれど、本当にそうなのだろうか。以前インターネットにはエターナルハートは不老不死の魅力的な病だ、自分も病に蝕まれたいなど書き込んだ連中が炎上したのは、やはりその病気は当事者にとっては苦痛があるという意味なのだろう。 実際私はエターナルハートではないからその苦しみはわからない。それに私はまだ高校一年生だった。他人の痛みを完全に理解するには幼すぎたのだ。                 「この中にはすでに知っている人もいるかもしれませんが、有明晴司君は無時間性心臓運動病を患い欠席をしていました。しかし状態が落ち着いたため明日に再登校できるそうです。今日のホームルームで説明した病気については家に帰った後も配布した資料を見て再学習し、有明君に接してください」 帰りのホームルームの後、起立礼をして皆が解散する中、私は先生から配布された資料をしばらく眺めていた。そして斜め右後ろの席に目をやる。有明晴司が一ヶ月前まで座っていた席は空席のままだ。机と椅子はまるで持ち主が再び戻ってくるのを静かに待っているようだった。 私は彼とは親しくはないし、もしかしたら挨拶程度しか話したことがないのかもしれない。だから、心配よりも興味の方が強かった。例の病気は前にテレビ番組で取り上げられたことがあって、私は目をランランとさせながら深夜までテレビ画面に釘付けになった。 心臓が永遠に止まらないって? 不老不死ってどんな感じなの? アニメや漫画みたいな話が、年々現実化してきている。思えば指先一つで火をおこしたり遠くにいる人と会話ができたりするのは、原始人からすれば全部魔法なのだ。この先人間が機械を使わずに空を飛ぶことだって、いちいち驚いちゃいられない時代に変わってくる。 「有明君、そんな大変な病気になっていたのね」 悶々と妄想の世界に入っていると、友人の花江瑞穗が鞄を抱えて前に立っていた。 「前にテレビでやってたよ。珍しい病気なんだってね。もう一回詳しくネットで調べてみようかな」 「さすが将来教師を目指す人は違うなあ。勉強することは偉いと思うけど、そんなのに興味あるのは咲夜子だけだよ。皆上の空で先生の話聞いていたし、男子はもう紙飛行機で遊んでるよ」                 瑞穗は顎で向こうを示すと、男子たちがさっき配布された資料で紙飛行機を作って窓から投げ飛ばして遊んでいた。教室中に下品な笑い声が響く。なぜかすごく不快な気分になった。        「子どもねえ・・・」 「それより、早く帰ろ! タルトケーキ食べ放題に遅れちゃう」 瑞穂は駄々っ子みたく地団駄を踏んだ。急かされるままに私は荷物をまとめて瑞穂と教室を出た。廊下を歩いて、昇降口で靴を履き替えて、街中を瑞穂とおしゃべりしながら歩いて、最近できたスイーツ店で果物盛りだくさんのタルトをたくさん食べた。食べ終えた頃には、有明晴司のことなどすっかり頭から離れていた。 これから身に起きる出来事を想像もしていなかった私は、口周りにクリームを付けて呑気に笑っていたのだった。 ******* 「おはよう」 翌朝、先生の言った通り有明晴司は登校して来た。きっと皆は病気と聞いた途端にやせ細った青白い顔を想い浮かべていただろう。実際私もそうだった。しかしは有明晴司は以前と変わらない姿のままだった。これには皆呆然としていた。 「有明、どこが悪かったんだっけ? 元気そうじゃんか」 一人の男子が声をかける。クラス一の目立ちたがりの彼はいつだって声が大きい。 「デリカシーないわねえ、元気になったから学校に来られたんじゃない。そうでしょ?」 一人の女子が呆れた風に言う。彼女もまた人から注目を浴びていないと気がすまない子だった。久しぶりにやって来た有明晴司は、今一番注目の的だからこそ、この二人は何かしら接点を持ちたくて声をかけたのだろう。それほど仲良くもないくせに。私は頬杖をついてその様子を眺める。 「大したことなかったよ。風邪よりも治りが良かったみたい」 有明晴司が笑いながら冗談を口にすると、彼らはつまらなそうに苦笑いを浮かべて離れていき、それ以上話しかけることはなかった。 有明晴司は前からどことなく他の子と違っていた。物静かで落ち着いている印象が周囲の人間を遠ざけていたし、彼が友達とふざけて遊んでいる場面など見たことがない。いつだって独りで行動していた気がする。 もしかしたら友人と呼べる者もいないかもしれない。休み時間になっても彼の席に趣いて労いの言葉をかける者は誰もいなかった。初めからそこに彼がいたような、いなかったような、そんな教室の空気は誰にも何の影響を与えない。ただの日常がここにあった。 どこからともなく、仮病を使って休んでいたという噂が耳に届いた。 誰かが誰かに囁いた悪口とも言えるそれに、私は少しだけ納得してしまった。特に変わった様子は見受けられないし、体育の授業にも出られる。それに、前よりすっきりした表情にも見えた。本当は仮病を使ってどこかに旅行へ行っていたのではないだろうかという疑念が浮かぶ。それが事実なら本当に病気の人に失礼じゃないかと思う。 真相はわからないまま、日は過ぎていく。再登校して以来彼は学校を休んだことはなかった。もちろん、関わりは一切持たず、彼は視界に入る程度で話をすることもなかった。それが私の日常であり、当たり前の日々だった。 彼にとっても、誰とも話さずひたすら読書をするそれが普通の日々なのだろう。 たとえ誰かから貶されようとも。 「有明だ! フェニックスだ!」 男の子が数名で有明晴司に向かってそんなことを言った。休み時間のことだ。 有明晴司は知らんぷりをして本を読み続ける。何の本かはわからない。 「こいつ不死鳥だから人の言葉がわからないんだ、何言っても無駄だよ」 男子達はうるさくゲラゲラと笑う。よく見れば先生からもらった資料で紙飛行機を作って飛ばしていた低脳の輩達だ。 「こういう幼稚ないじめって高校でもあるのね」 瑞穂がひそひそと耳打ちをする。他の子達はそれぞれ仲間ではしゃいでいるので教室は騒がしく、この状況もその内の一つとして大事にならず処理されてしまっていた。 「なぁなぁ、どうやったら不老不死になれるんだよ? てかそんな病気ほんとにあんの? チュンチュン?」 丸坊主でチャラチャラした男子が有明晴司の机に足を乗せた。それでも彼は動じない。無反応が面白くない丸坊主は彼から本を取り上げた。 「この本になれる方法書いてあるんじゃね?」 男子達は奪い取った本を投げ回してペラペラとページをめくる真似をする。 「こいつ、昔話の本なんか読んでるぜ! 小学生かよ」 「返せよ」 遂に有明晴司は動いた。眉間に皺を寄せて、心の底から不快だという意思表示をした。 「なんだよ、人の言葉話せるんなら最初から話せよ。お前ズル休みしてたんだろ? 俺達が頑張って勉強してる間にさ」 「だったらどうなんだよ。お前らに関係ない。本を返せ」 有明晴司が言い返した途端、誰かが挑発するように口笛を吹いた。 「いや、気分悪いわー。不老不死とかかっこいいこと言ってズル休みとか。前から気に食わないとは思ってたんだよなぁ。病弱なふりだろ。色白いし、女みたいにひょろひょろだし。つか、幽霊じゃん、死んでるじゃん」 次のゲラゲラ声が聞こえてきた時、私の腸はぐつぐつに煮立っていた。 「お前みたいな嘘つき、生きてる意味ないよ」 ついに、私の中の何かが切れた。 「さ、咲夜子、どこ行くの?」 瑞穂との会話も頭に入らない。私は丸坊主の前に静かに立ち、そして静かに声をかけた。 「本、返してもらえない? それ、私が有明君に貸した物なの。学級委員長としていじめは無視できないけど、これ以上何もせず大人しく返してくれたら先生には報告しないでおく」 男子達のさっきまでの勢いはなくなり、しんとした。 ずるいかもしれないけど、こんな時こそ学級委員長の特権を使うべきだ。確か、この丸坊主は鈴木と言って、野球部に所属している。もしいじめ騒動が先生にばれたら部活停止になる。野球が大好きな彼にとってそれは耐え難い罰になるし、先輩からも目の敵にされることだろう。 「お、おー、わ、悪かったよ」 鈴木はびびって素直に本を返してくれた。何度も読み返したようなボロボロで少し汚れた本だ。もちろん、私は貸していない。嘘も方便ということ。 「ありがとう。あと、人のことどうこう言うのはよした方がいいね。鈴木君も言われるの嫌でしょ? 顔中のにきびのこと。早く良くなるといいね」 優しくそう言ってやると鈴木は顔を真っ赤にさせて、口をパクパクしていた。にきびを気にしていたのは事実らしい。 「あははは! 馬鹿だなぁ」 「うるせえ! 行くぞ」 取り巻きの男子達は、今度は鈴木君を笑い始めて場が悪そうに有明晴司から離れていった。 そうこうしているうちに授業開始のチャイムが鳴って、私は席に着く前にさっと本を有明晴司に返した。彼はきょとんとした顔で頭を下げる。 「咲夜子かっこよかったよ! さすが学級委員長! 教師志望! 怖くなかった?」 瑞穂が抱きついてきて賞賛の声をあげる。私の腸はまだ少しだけ煮立っていた。 「人の外見も病気も、馬鹿にする奴は絶対に許せないからね」 今回のことで父のことを思い出した。五十歳の若さで脳腫瘍で死んだ時、私はまだ小学生だった。病院に見舞いに来ていた親族達は、父の姿がやせ細り骨と皮だけになっていく姿を恐れて、やがて来なくなった。私と母だけは毎日見舞いに行ってささやかな家族の時間を過ごしていた。日に日にかつての父の姿が消えていくのは、恐ろしくはなかったけど寂しくて胸が苦しくなった。 「ありゃ、化け物と同じだな。酷い酷い」 「死んでるのと変わりないわ」 「嫁さんと子どもが可哀想」 幼ながらに聞いた親族達の声は、本当に酷くて心が死んでいるんじゃないかと思った。 同じく、陰ながらそれを聞かされた母は、泣きながら私を抱き締めた。それから、こんな心無い人が増えないようにと願って教育者になることを決めた。 効果があったのか、それからは有明晴司がからかわれることはなく穏やかな学校生活が続いた。 そして、穏やかな日々が一変する事態が訪れた。 その日は、灰色の曇り空が頭の上に広がっていて、いつ雨が降り出してもおかしくない天気だった。 梅雨の時期だというのに傘やかっぱを家に忘れるなんて。 学校の帰り道、急いで自転車を漕ぎ家に向かう私は、交差点の信号で立ち止まっている有明晴司を見かけた。 家が同じ方向だからか、ここら辺りで時々見かけることがあった。少し距離を置いて私は信号が青になるのを待った。 有明晴司は私に気づいていない様子だ。横顔は微動もせず、横断歩道をじっと見つめていた。心ここにあらず、まさにそんな感じだ。 途端に雨が激しく降り出して容赦なく私を濡らした。同じく信号待ちをしている人達から悲鳴があがった。私はふいに片手で頭上を覆う。 ほんの一瞬、彼から目を逸らしただけだった。 再び前方に目を向けると、有明晴司の姿はなかった。 「えっ」 信号はまだ赤である。それなのに有明晴司は横断歩道を進んでいた。彼に自動車が迫っている。全てがスローモーションに見えた。落下していく雨粒の一つ一つも、クラクションの激しい音も、歩くのをやめて微笑む彼の顔も。そして地面を蹴った私の足音。 無我夢中で声も出なかった。結末が瞬時に頭を過ぎって、気づいたら私は自転車を突き放し、道路に向かって駆け出していた。   私の両手が彼の背中に届き強く押した。次に私の身体は強い衝撃を受けて中を舞い、雨粒と共に地面へ落ちた。 冷たいアスファルトに打ち付けられて私は仰向けになったまま身動きがとれない。生暖かいものが頬に付く。雨水に滲んで赤い血が流れていた。それは私の頭部から流れ出しているとわかった。ああ、無茶なことをしたものだと冷静に考えている。でも先の方に倒れていた有明晴司が起き上がったのを確認して、ひどく安心する。彼は今にも泣き出しそうな顔をして私の方を見た。 そんな悲しい顔はしないで。 私は自分のことよりも彼のことを心配していた。親しくないのに、どうしてここまで彼のことを想うのか不思議で仕方がない。学級委員長の責務じゃない、私にはいじめから庇う勇気はあっても、自分の命を放り投げてまで他の人を助ける勇気はないはずだ。 彼が何かを言っている気がしたけど、目が合ったのと同時に私の意識は飛んだ。だから彼の声を聞き取ることはかなわなかった。
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