30歳、秋

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30歳、秋

今回の事例はさすがの晴司も頭を抱え た。 依頼主は坂神紗弥さん三十八歳女性。エターナルハート者の母親である。彼女はレストランの通路脇に置いたベビーカーを、片手で揺らしながら話を続けた。 「この子を殺してくれるんでしょ?」 ファミリーレストランで物騒なことを口にする母親。周囲に遠慮せず、声のボリュームも大きい。食事をしている客達が驚異の目でこちらを見た。 「殺す、とは違います。拍動の止まらない心臓を治し、眠らせると言っていただきたい」 「同じことでしょ、まあなんでもいいから頼むわ」 晴司は顔を顰めるが、ビジネスのため冷静に感情を落ち着かせていた。 ベビーカーで眠る赤ん坊は、坂神さんが十八歳の時に出産し、それ以降シングルマザーとして育ててきた。しかし、この子は心臓に病気を持って誕生した。 「病名はエターナルハート。聞いたこともなかったからどんなものかと思ったら不老不死の病なんですって。こう見えてこの子二十歳なんだよ」 すやすやと鼻翼呼吸を繰り返す赤ん坊は、万人が見ても二十歳には見えなかった。今しがた生まれたばかりの新生児にしか思えない。 「なぜ、殺してくれなどと?」 「・・・元々産むはずじゃなかった。父親も蒸発したし、一人で育てるの大変だし。心臓に病気を持ってるかもってわかった時はすでにお腹の中で大きくなっていたから」 「仕方なく産んだんですか」 「そうね、仕方なく。いいじゃない、二十年も面倒見たんだからとやかく言われる筋合いはない」  母親なのに、少しも躊躇していない。貧乏ゆすりまでしている。坂神さんはまるで長年使ったバッグやアクセサリーなんかを売りに出すような感じで平然としていた。 私の右隣に座る晴司から熱気を感じた。長年付き添っているが、この熱気を発している時、彼は静かに怒っているのだ。 「申し訳ありませんが、この依頼を引き受けることはできません。お引取り願います」 「なんで?」 「あなたの言っていることは、自分が対象を殺害できないから他人に人殺しを頼んでいるようなものだからです」 きつい言葉だが、私は納得してしまう。晴司の言うことは正論だった。 これには坂神さんも反発する。 「エターナルハートって人間扱いされないんでしょ? 知ってるよ、二十年も変な目で見られてきたんだから。じゃあこの子は一体何? いつまでも変わらない、二十年も経っているのに赤ん坊のまま。どうせ化物を殺しても罪には問われないでしょう!」 興奮した彼女は顔を真っ赤にして立ち上がり、声を荒げる。ベビーカーに乗った赤ん坊は母親の声に驚いて盛大に泣き始めた。坂神さんは我に返り戸惑った。他の客達の冷たい視線がこちらに向けられていたせいもある。 「抱いてあやさないんですか?」 晴司の一言で更に顔を赤くさせた。 「あなたは赤ん坊の眠らせ方を、すでに知っているんじゃないですか? それなのに恐れているから、僕達に依頼を頼んだ」 坂神さんは財布からお札を何枚か出してテーブルに強く押し付け、ベビーカーを押して店をせかせかと出て行った。 「坂神さん!」 「放っておけよ」 晴司は彼女を追いかける素振りもなく、足を組んで優雅にコーヒーを飲んでいた。 「あの人本心で言ったんじゃないはずよ。自分の感情や思いを人に伝えるのが苦手な感じだった」 「お前は」 晴司の次の言葉で私は、こいつは女性を怒らせる天才だと認識させられるはめになった。 「三十を過ぎても何も変わらないな。まるで成長していない。案外俺と一緒なんじゃないのか? よく教師なんてやれるよな」 晴司十五歳、私三十歳の秋。私は大学を卒業して中学校の教員になった。相変わらず左耳は聞こえない。補聴器を付けても微かにしか音をとらえられない。晴司はまだ私が左耳の難聴であることを知らない。だから彼の前でだけは髪の毛を下ろして補聴器を隠している。 晴司の生活は十五歳から変わらない。今も母親と二人で暮らしている。ただ変化があったとすれば晴司の性格だ。日増しに冷徹になっている。今のように私を貶すことも多くなった。 「あんたと一緒にしないで。私は坂神さんを信じる」 私は晴司を残して店を出た。 坂神さんはすでに距離が離れた場所を歩いていた。ベビーカーの車輪が回る音が私に居場所を教えてくれたのだ。 「待って!」 私は走って坂神さんを引き止めた。坂神さんは憔悴しきった顔で振り返り止まる。 「何?」 追いついた私は息を切らしながら声を出す。 「あいつ、あなたのことを誤解しているんです。人の心がわからない馬鹿で」 「何、あんたならあたしの心がわかるって言うの?」 なかなか呼吸が落ち着かない。私も歳をとったということだろうか。こんなに全速力で走ったのは久しぶりだ。晴司ならもっと早く追いついたはずだ。 「あんたはさっきの子のお姉さん? それとも母親ってわけないよね?」 「いえ、同級生です」 「は?」 「あいつはエターナルハートなんです。その子と同じ」 坂神さんは目を丸くして赤ん坊を見下ろす。そして納得がいったように「そうだったんだ」と呟いた。 「・・・そっか、そりゃ怒るわよね、あたしがあんなこと言ったら・・・。ごめんね、代わりに謝っておいてよ」 晴司への謝罪の伝言を頼まれる。私はやっぱり坂神さんは悪い人ではないのだ と確信した。 私と坂神さんは公園内を並んで歩き、これまでの経緯を彼女から聞いた。 「産まれた瞬間に心臓発作を起こして、新生児集中治療室に運ばれたの。保育器の中で小さく息をしていて、死んじゃった方が楽なんじゃないかって思ったよ。でもすぐに回復して出てきたんだけど、医者から信じられない説明を受けた。この子は成長することができず、永遠にこのままの姿で生きるって。そして、あたしが抱くことで死ぬって。意味がわからなかった」 当時は信じられなかった坂神さんは、生まれて一年が経過しても体重も身長も変わらず、目が開かないままの赤ん坊がようやく不老不死の病であることを疑う余地がなくなった。生活は二十年前から止まっているという。 「だから二十年間、生まれてから一度も 抱いたことがない。ベビーカーに乗せるのだって一緒に住んでいる母親の手を借りるしかない。あたしは、この子に触れちゃいけないと思うと、辛くて、いつの間にか憎くなっていった」 これが、坂神さんの本心だ。 彼女は噴水の近くでしゃがみ、ベビーカーで眠る赤ん坊を眺めた。まぎれもない、母親の目をしていた。 「どうして二十年経った今、終わらせようと思ったんですか?」 「今日がこの子の二十歳の誕生日だったから。普通なら成人でしょ。それまでは責任もって面倒見るって決めてた」 坂神さんが晴司に言った、この子に対する否定的な言葉は全部嘘だった。貧乏ゆすりも、手の震えをごまかすため。時に人は、大切な者のために強がって苦しい嘘を吐かなくちゃいけないことがある、その気持ちはよくわかる。苦渋の決断だったはずだ。こんなに愛おしそうにわが子を見つめているのだから。 二十歳、同い年の子は成人を迎える。その光景を坂神さんはどんな思いで見ていたのだろう。自分の子の晴れ姿を見られないことがどんなに悔しいだろう。  「本当今更だよね。あたしがこの子の命を終わらせる唯一の方法なんだと思うと、怖くて仕方なかった。あの男の子の言うとおり、責任を他人に押し付けようとしていたの。いつかあたしの手でこの子を終わらせないといけない。そんな勇気が出なかったら永遠にこのまま生きるのよ。そんなの残酷じゃない。母親が子どもを独りぼっちにさせるなんて。・・・あんた達のホームページを見つけてこれしかないと思った。でも、結局だめね。あたしが手を下さない意外道はないのね」 少年少女が私達のすぐ脇を元気に駆け抜けて行った。赤ん坊はぴくりと反応し、声をあげて泣いた。抱いてあやすことのできない坂神さんは困惑してしまい、ベビーカーを必死に揺らすしかなかった。 「まいったな、いつもは母さんがあやしてくれるんだけど」 「私が、抱いてもいいですか?」 坂神さんは驚いた表情をしたが、静かに頷いて身を引いた。私はそっと赤ん坊を抱き上げる。小さくて、温かい。やっと息をしている。けれど重みを感じた。人じゃないと差別をされている病気。でも確かにこの子は生きている。赤ん坊はしばらくすると泣き止んだ。 「ちょっと、なんで今度はあんたが泣くのよ」 赤ん坊が泣き止んだ代わりに、今度は私の目から涙が溢れた。母子が悔いのない別れ方をするにはどうしたら良いのか、必死で頭を回転させる。 抱いたら徐脈になりやがて心停止する。新生児のまま時間が止まっているならば脈拍は百四十から百八十。成人で発症した人に比べれば、徐脈になり心停止するまで時間がかかるのではないのだろうか。 この子が望むものはなんだろう?  私に最愛の人がいるならどうするだろう?  私なら、その人のことをたくさん知りたい。 じゃあ知るには? その人を目で見る。声を聞く。 声。 最愛の人の、声。 「坂神さん」 私はたった一つの提案を彼女に打ち明けた。母子が幸せになる方法はこれしかないと思った。 坂神さんは、ハートストップ同意の書類にサインを書いた。 レストランに残っていた晴司に交渉して、私達は坂神さんと自宅のアパートに向かう。鉄骨階段を登ってすぐに坂神さんの部屋があった。中から坂神さんの母親が出迎えてくれたので、丁寧に事情を説明する。母親は悲しいような、どこか安心したような顔をして私達を中に入れてくれた。 坂神さんは自室から一冊のアルバムを取り出した。 「これ、あんたに言われたものだよ」 私が頼んだのは、坂神さん自身のアルバムだった。 「わかりました。では、私達はここで待っていますから、終わったら声をかけてください」 「あたしに、ちゃんとできるかな」 不安そうな坂神さんに、母親は手を肩に置いた。 「私も傍にいるから、この子にあんたのことをしっかり教えてあげなさい」 坂神さんは少し間を置いて頷く。 母親がベビーカーから赤ん坊を抱きあげ、そして三人は襖の向こう側に消えた。私と晴司は玄関の近くで待機する。 「母子が後悔しないやり方なんてあるのか? 今回俺は何も手を出さないぞ」 堂々と胡坐をかいて臭い顔をする晴司に、私は自分の考えを説明してやる。 「思い浮かべてみたの、もし私が明日死んでしまうとしたら何を望むかって。そしたら一番好きな人のことを全部知りたいと思った」 「どうせ死んだら全部忘れるのに?」 晴司は悪態ついて鼻で笑う。 「いいから聞いて。例えば自分は何もなく人生が終わるって悲劇した時、それでも好きな人ができただけで満足だったって思えるはずよ。それだけで自分が生まれた意味にもなりうるでしょ?」 「めでたい思想を持っているんだな。赤ん坊は母親を愛したことでこの世に生ま れた意味になるってことか?」 「あんたがどう言おうと、私はそう信じている」 晴司は突然、顔を近づけて私をじっと見た。友達になった時から変わらない顔。もしかしたら、私にとって一番好きな人は誰か、と聞かれるんじゃないかと思って身構えた。 「何?」 「いや、小皺があるなと思って」 私は晴司にビンタをしてやりたかった。  
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