30歳、秋

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襖一枚越しに三人は最後の別れの時間を過ごしている。盗み聞きをするわけではなかったのだが、襖が薄いせいで坂神さんの声がはっきりと聞こえてきた。 右耳の鼓膜が揺れ動く。 「聞こえる? 少し、照れ臭いわね。あたし、あんたに何も教えていなかったから今から話すわね」 人は胎児の頃から耳が発達しているという。ならば坂神さんの子も、新生児で成長が止まったとしても耳が聞こえるはずだ。 「何から話したらいいのか・・・」 襖から少し離れて私達は坂神さんの声を聞いていた。きっと自分のアルバム写真を開きながら話をしているはずだ。 「あんたと一緒で、あたしが生まれた時は父親がいなかったよ。女手一つで育てられたんだ。おばあちゃんにはだいぶ迷惑をかけた。何度も泣かせたし、叱られた。今はましになった方でね。あんたが病気じゃなくて成長していたら、あたしみたいにろくでもない大人になっていたのかな? そんなことどうでもいいか。元気なら、それで」 赤ん坊に向かって秘めていた思いを打ち明けていく。赤ん坊を産んだことで疎遠だった母と仲が良くなったこと。三人で暮らし始めてから孤独感が薄れていったこと。 ただ、良いことばかりではなかったこと。 周りの子は成人式を迎え、我が子がいつまで経っても目の開かない新生児のままで、色んな人に好奇の目で見られては、人を遠ざけて生活してきた。何より世界の光を一度も見せてやれない悔しさ。しかし、心のどこかでもしかしたら病気が治って、いつか大人になるのではないかという期待を持っていたということ。 大人になったら、化粧の仕方や恋の仕方、生き抜くために必要なことをたくさん教えてあげたかった、と。 「少なくとも、本気であんたをいらないなんて思ったことないよ。何があんたにとってせめてもの幸せなのかわからないだけ」 二十年待った。どんなに願っても永遠にこのままだとわかって、いつか独りになる前に、自分がいなくなる前に別れなければいけないと感じ始めた。 我が子が苦しまないように。 坂神さんが自身の思いを話した後、しばらく部屋に沈黙が流れていた。二人の、鼻のすする音が聞こえる。赤ん坊はそれに気づかずすやすやと寝息を立てているのだろう。 「幸せにしてやれなくて、ごめん」 母子の別れの時間を私達はいつまでも待っていた。最初はしぶっていた晴司の顔を横目で見る。晴司は両膝に頬杖をついて虚空を見つめていた。何を考えているのかはわからないが、とても寂しそうな目をしていた。赤ん坊のことを思ってか、あるいは自分を重ねて感慨にふけているのかもしれない。 「母さん、梨衣香をこっちに預けて」 「いいのかい?」 「うん、大丈夫」 準備ができたようだ。晴司は立ち上がり襖を開けようとするのを、私はすぐに止めた。 「待って、まだよ」 「停止の確認をしなくちゃいけない」 「それはわかってる。だけど、ぎりぎりまで待って。お願い」 私は泣くのを堪えながら懇願する。本当にぎりぎりまで家族だけの時間を優先してあげたかった。まだ坂神さんは赤ん坊に語りかけているのだ。まだ終わっていない。 晴司は溜息をついて襖から手を離した。 「初めて抱けた。こんなに軽くて柔らかかったのね」 坂神さんは産んで初めて我が子を抱いた。最初で最後の貴重な瞬間だった。両腕の中で早い鼓動を感じているはずだ。 「梨衣香、またおいで。どこかで生まれて、ちゃんと成長してあたしに会いに来て」 愛しているよ。 腕時計を確認し、晴司は襖を開けた。部屋に入ると明らかに一人の気配が消えている。 悟った私はその場から動けなくなった。 「確認しろ。今回はお前の仕事だろ」 晴司は私の背中を優しく押した。狼狽えながら私は一歩前に出る。 坂神さんの腕に抱かれた赤ん坊はこれまでと変わらず眠っていた。だが、息をせず体を動かすこともなかった。私は胸に手を当てて 目を瞑る。 「眠りました。心臓は動いていません」 「う、ああああ・・・」 それを聞いて坂神さんは強く赤ん坊を抱き締め、泣き喚いた。 「あたし、ちゃんとお別れできたのかな? この子は幸せになれたのかな?」  これからどう生きればいいのだろう。坂 神さんは我が子と別れた後の辛さが耐え切れなかった。いくら心の準備ができていたとしても、平気でいられる親はいるはずがない。 「時々で、いいから」 私は言葉を選びながら助言をする。 「抱く真似をしてあげてください。両腕の中の空洞を愛してください。そうして梨衣香ちゃんを思い出して。永遠に生きるという意味は、誰かがいつまでも覚えていてくれることだから」 坂神さんは頷いて、また声をあげて泣いた。 もう聞こえないとわかっているのに、彼女は声をかけることをやめなかった。 「愛してるよ、梨衣香」
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