30歳、秋

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一匹の鼠が草むらの陰で死んでいるのを見つけた。晴司はそれをライターで火を付けて完全に炭にした後、掌ですくい集めて土の中に埋めてやった。それは、哀れみと慈悲を持った行動だった。例え虫一匹でも彼にとって命の重みは平等だ。 「ばあちゃんのことを久しぶりに思い出した」 鼠を埋葬した後、晴司は土だらけの手を払いながら言った。 「俺も坂神さんみたいに、声をかけることができていたら、何かが変わっていたのかな。後悔しても遅いけど」 今日も一人の生を終わらせた。二十年の生涯を終えた梨衣香ちゃんは火葬場の煙突から気体となって空にのぼっていった。乾ききって、何かが焼き焦げる臭いにすっかり慣れた私の嗅覚。今更になってそれが不快で、滅多に吸わない煙草をふかして臭いを紛らわせる。目に染みて涙が滲んだ。たちまち周囲は煙たくなって悪い空気が漂った。私達はその空気がすっかり消えるまで火葬場近くの林の中にじっと立っていた。 「後悔していることがあるの?」 「あの日、旅行に行った帰りだった。携帯に着信があって、そこで初めてばあちゃんの危篤を知った。タクシーで病院に向かっている途中から心臓が苦しかったんだ。急性的なストレスがこの病気の発症原因かもしれない」 晴司はおばあさんに買った土産をタクシーに置き忘れてきたらしい。 母親から聞いた病室まで一気に階段で駆け上がった。旅行の疲れなど構っていられなかったそうだ。 「ばあちゃんの息遣いは明らかにおかしくて、今にでも止まりそうだった。そしたら永遠に会えなくなる。だったらちゃんとお土産を渡しておけば良かったって、その時すごく後悔した」 最愛の人に会えなくなる苦しみ。それが病の引き金となった。 晴司がここまで自らのことを話すのは久しぶりだった。 晴司はずっと母親と二人暮らしをしている。母親はとても優しそうな人だったが、今では実の息子に他人行儀になって会話も少なくなっているそうだ。成長できない息子が煩わしいのか、それとも晴司のストッパーにならないように、晴司に愛されないようにわざと冷たくしているのかはわからない。晴司が弄れた性格に変貌したのは、悪化した家庭事情のせいかもしれない。 晴司は鼠が埋まっている地面を見つめる。 「人が、憎くて仕方がないことがある」 「それは、晴司と違うから?」 「逆、俺が普通の人と違うから」 「私も憎い?」 「正直、避けたくなる時がある。同じ歳なのに差が大き過ぎるから。俺達、見た はもう十五年離れているんだな」 私の心臓は締め付けられた。私達はこんなにも差ができてしまった。晴司が迎えるはずの成人をとうに超え、社会に出た。彼の時間は止まったまま。 新しい年を迎えるに連れて、晴司との距離がだんだん遠くなるのを感じる。 「お前にとっては、俺はもうガキだから何の心配もしていないけど、一つだけ忠告しておく」 晴司は真剣な眼差しで私に一つ、忠告した。その忠告を私は受け入れることも拒否することもできないまま口を噤んでしまった。 「俺を愛するな、ただそれだけだ」 私の心臓は一瞬止まってしまった。 晴司はその一言を発した後、林の外へ歩み始めた。彼の背に伸びかけた手を、 慌てて引っ込める。 晴司に触れてはいけないということを 忘れるところだった。 彼がどういう意図でそんなことを言ったのかは、大体想像がついた。 やはり晴司は優しくて、自分より人のことを心配する。彼は私に普通に幸せになることを求めている。他の誰かと結婚して子どもを産んで年を取って死ぬこと。自分の代わりにそんな未来を叶えてほしいとでも思っているのだろう。 悔しかった。悔しくて、涙が出る。 愛するなと言われても、すでに手遅れだった。 華奢で頼りない少年の背が遠ざかる。 見上げると、煙突からはもう煙が出ていなかった。 再び草木と乾いた地面の臭いが戻った頃、私達は火葬場を去った。 その日の夜、瑞穂から電話で結婚したという報告を受けた。お腹にはすでに赤ちゃんがいる。命の終わりと始まりがいっぺんに情報として頭に入ったせいか、気持ちの整理がつかなくて、うまくお祝いの言葉を伝えられたかわからない。 もしかしたら言葉の裏には妬みが含まれていたのかもしれない。瑞穂が鈍感であればいいなと願った。 私は布団の中で両腕で空洞を作った。もちろん、温かみはない。 私はこの先、結婚せず子どもも産まないだろう。母親になることはないのだ。 そう覚悟しているのにどうしてだろう。出会ったことのない想像の我が子が愛しくて涙が出た。  
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