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ある秋日、小学二年生の浩一は学校の裏庭を下を向いてとぼとぼと歩いていた。
「そんな風にして歩いてると転ぶから、ちゃんと前を向いて歩くんだよ」
突然の呼びかけにビクリと背骨を伸ばした浩一は、声の主を探すように辺りを見渡した。木と木の間の人影を追って歩を進めると、焦げた匂いがツンと鼻をついて、浩一は思わず顔を歪めた。さらに近寄っていくとその匂いはさらに強くなっていき、浩一は思わず鼻をつまんでしまった。
『学校の管理人さん』と呼ばれているおじいさんが、フェンスの向こう側の焼却炉で何かを燃やしているのだった。おじいさんにピタリと寄り添うようにして、おじいさんが飼っている雑種の犬、次郎もいた。
「僕もそっちに行っていい?」
言うが早いか、動くのが早いか。浩一はフェンスを乗り越えておじいさんの側へ駆け寄ると、何を言うこともなく次郎の頭を撫でた。次郎は嬉しそうにワンと吠えると、浩一の手を、顔をぺろぺろと舐めた。おじいさんはそんな浩一に何かを察したかのように口を開いた。
「元気がなさそうに歩いていたけど、学校で何かあったのかな?」
「え? うん……」
歯切れの悪い浩一におじいさんはほうほうと笑ってから、
「テストで悪い点でも取ったのだろう」
「なんでわかったの?」
「おじいさんくらい年を重ねると、顔を見ればわかるんだよ」
おじいさんはしわくちゃの顔にさらにしわを集めて、
「ほれ、ここに入れてしまいなさい」
と、鉄の棒で焼却炉の中をかき混ぜた。
「いいの?」
「いいさ。そのための、焼却炉だもの」
浩一は花のように笑顔を咲かせた後、すぐに眉間に皺をよせてしまった。早くテストを燃やして楽になりたい、いや、悪いテストであっても親に見せないで燃やしてしまっても良いものだろうか。そんな葛藤が浩一の中でせめぎ合っているのだった。
浩一は後者の不安を少しでも解消すべく、小さな口を開いた。
「おじいさんも、何か燃やしたの?」
「おじいさんがかい?」
虚を突かれたかのようにおじいさんは一つ虚空を舐めた後、浩一の不安そうで小さな眼を見ると、ほうほうと笑ってから口を開いた。
「そりゃあ、色々さ。ほら、早く入れてしまいなさい、おじいさんの口は堅いんだから」
「ほんと?」
「ほんとさ。それに、次郎だって何も言わないよ。なあ、次郎」
ワン、と次郎は元気に同意した。
浩一はランドセルから小さく折りたためられたテスト用紙を取り出して、丸めて焼却炉の中に放り込んだ。紙が窮屈な形に姿を変えていき、白から灰に、灰から黒に色を変えていくさまを、浩一はただジッと見つめていた。
そんな浩一の小さな背中を、おじいさんは何か愛おしいものを見るような眼差しで見てから、空を見上げて言った。
「ほら、全部、煙になって空に消えていった」
ほんとだ、と浩一も空を見上げて言った。おじいさんは浩一の頭に右手をポンと乗せ、
「焼却炉はね、いわば忘却炉なんだ」
「ぼう、きゃく?」
「そう、忘却。忘却とは忘れてしまうこと。だから嫌なことは綺麗さっぱり忘れて、顔を上げてきちんとお家に帰るんだよ」
というと、浩一は何も言わずにコクンと一つ頷いた。
それから浩一は、ちょくちょくおじいさんの元を訪ねるようになった。それは、給食のパンを残してきたのを次郎にやったり、おじいさんが燃やす焼却炉の中に木の枝を投げ込んだりするだけで、何か特別な理由があってのものではなかった。悪い点数のテスト用紙を燃やしたのはあの日の一度きりであったし、悪い点数を取らなくなったためでもある。
ある時はおじいさんが浩一に将棋を教えたり、またある時は浩一がおじいさんに学校や家での出来事を話して聞かせる。浩一とおじいさんはまるで歳の離れた親友のようになっていた。そんな二人を見つめる次郎が、いつも二人の間で優しく微笑みを浮かべていた。
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