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「わたしに会いにきたんじゃないんですか」
「うん。凛子ちゃんのうなじに会いにきたよ」
「もしもし、警察ですか。この人逮捕してください」
逃げ出そうとするわたしの体をがっしりと捉えて、あなたは慣れた手つきで後ろ髪を払った。
触れられてしまった! 抱き締められてしまった! 寝起きだし、小豆色のジャージのままなのに!
密着した体が熱い。教室では考えられない距離感に、心臓が暴走する。
「お、奥さんが泣きますよ」
「もう泣かせてるよ、きっと」
わたしはじりじりと芋虫のように畳の上を這ってみたけれど、すぐに引き戻されてしまった。
「ああ、やっぱり君のうなじは最高だね!」
「やめて、興奮しないで、気持ち悪い!」
うなじに吐息を感じて、ぞわっと鳥肌が立った。抵抗しようと思ったけれど、あまりにも気色悪くて動けなかった。
「どうしてそんなにうなじが好きなの」
「日本人の美が集約されてるからかな」
「意味が分かりません」
「大人になったら分かるよ」
「ぎゃっ」
突然うなじに吸いつかれたので、口から変な声が出た。色気のない声だなぁ、とあきれられた。腹立たしい。だけどなんだか、ぞくぞくして抵抗できない。わたしはおとなしく正座をして、あなたにされるがままになった。
「……奥さんってどんな人なんですか」
「どうしたの、いきなり」
「うなじフェチの先生が結婚する人なんだから、さぞかし素敵なうなじをお持ちなんだろうなと」
「きれいだよ。色白で、儚くて、凛子ちゃんにちょっと似てる」
「ああ、そうですか」
「怒った?」
「いいえ」
わたしはコップを手に取ると、乾いた喉へ緑茶を流し込んだ。あなたの指がいやらしく首の後ろをなぞる。気持ち悪くて全身に鳥肌が立った。それから急に絶望した。
ああ、やっぱり。
年季の入った天井をぼんやりと見上げる。この薄汚れた家と同じように、いつまでもきれいな愛情なんてどこにもないのだなぁ。結婚は、愛する人を縛る鎖にはならないのか。
男なんて、どいつも、こいつも。
「……先生」
振り向くと、あなたはなぁに、と首を傾けてくれた。わたしはあなたの手に手を重ねて、ゆっくりとささやいた。
「子供がほしい」
それは、まるで呪いのように。
どうしてこんなことをあなたに言うのか、あなたはきっと理解してない。分かってほしいとも思わない。わたしのことを、知られたくない。あなたは相変わらず読めない表情を浮かべて、「分かった分かった」とわたしを制した。
「また今度ね」
「今度っていつ」
「100年後、生きてたら」
亀になりたいと思ったのは初めてだった。人間の一生の短さを恨んだ。
「わたし、医者になります」
「進路が決まったね」
うなじにちくりと痛みが刺さった。
「痛い」
「ごめんね」
あなたは悪びれる様子もなく、わたしの首から口を離す。うなじに触れたら、深く、あなたの歯型がついているのが分かった。
「歯型つけるの好きなんですか」
「ううん、別に。だって、せっかくきれいな肌なのに汚しちゃうでしょ」
「ならどうして」
「凛子ちゃんのうなじはね、食べたくなるんだよ。だから、つい」
「……食べていいんですよ」
わたしはちょっとだけ笑ってみせた。
「頭でも目玉でも内臓でも」
そしたらわたしは、あなたの中で永遠に生きられるのだから。あなたは「グロテスクだね」と答えて、わたしの頭をぽんぽんと叩いた。
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