第1話

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「わたしに会いにきたんじゃないんですか」 「うん。凛子ちゃんのうなじに会いにきたよ」 「もしもし、警察ですか。この人逮捕してください」  逃げ出そうとするわたしの体をがっしりと捉えて、あなたは慣れた手つきで後ろ髪を払った。  触れられてしまった! 抱き締められてしまった! 寝起きだし、小豆色のジャージのままなのに! 密着した体が熱い。教室では考えられない距離感に、心臓が暴走する。 「お、奥さんが泣きますよ」 「もう泣かせてるよ、きっと」  わたしはじりじりと芋虫のように畳の上を這ってみたけれど、すぐに引き戻されてしまった。 「ああ、やっぱり君のうなじは最高だね!」 「やめて、興奮しないで、気持ち悪い!」 うなじに吐息を感じて、ぞわっと鳥肌が立った。抵抗しようと思ったけれど、あまりにも気色悪くて動けなかった。 「どうしてそんなにうなじが好きなの」 「日本人の美が集約されてるからかな」 「意味が分かりません」 「大人になったら分かるよ」 「ぎゃっ」  突然うなじに吸いつかれたので、口から変な声が出た。色気のない声だなぁ、とあきれられた。腹立たしい。だけどなんだか、ぞくぞくして抵抗できない。わたしはおとなしく正座をして、あなたにされるがままになった。 「……奥さんってどんな人なんですか」 「どうしたの、いきなり」 「うなじフェチの先生が結婚する人なんだから、さぞかし素敵なうなじをお持ちなんだろうなと」 「きれいだよ。色白で、儚くて、凛子ちゃんにちょっと似てる」 「ああ、そうですか」 「怒った?」 「いいえ」  わたしはコップを手に取ると、乾いた喉へ緑茶を流し込んだ。あなたの指がいやらしく首の後ろをなぞる。気持ち悪くて全身に鳥肌が立った。それから急に絶望した。 ああ、やっぱり。 年季の入った天井をぼんやりと見上げる。この薄汚れた家と同じように、いつまでもきれいな愛情なんてどこにもないのだなぁ。結婚は、愛する人を縛る鎖にはならないのか。 男なんて、どいつも、こいつも。 「……先生」  振り向くと、あなたはなぁに、と首を傾けてくれた。わたしはあなたの手に手を重ねて、ゆっくりとささやいた。 「子供がほしい」 それは、まるで呪いのように。 どうしてこんなことをあなたに言うのか、あなたはきっと理解してない。分かってほしいとも思わない。わたしのことを、知られたくない。あなたは相変わらず読めない表情を浮かべて、「分かった分かった」とわたしを制した。 「また今度ね」 「今度っていつ」 「100年後、生きてたら」  亀になりたいと思ったのは初めてだった。人間の一生の短さを恨んだ。 「わたし、医者になります」 「進路が決まったね」  うなじにちくりと痛みが刺さった。 「痛い」 「ごめんね」  あなたは悪びれる様子もなく、わたしの首から口を離す。うなじに触れたら、深く、あなたの歯型がついているのが分かった。 「歯型つけるの好きなんですか」 「ううん、別に。だって、せっかくきれいな肌なのに汚しちゃうでしょ」 「ならどうして」 「凛子ちゃんのうなじはね、食べたくなるんだよ。だから、つい」 「……食べていいんですよ」  わたしはちょっとだけ笑ってみせた。 「頭でも目玉でも内臓でも」  そしたらわたしは、あなたの中で永遠に生きられるのだから。あなたは「グロテスクだね」と答えて、わたしの頭をぽんぽんと叩いた。
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