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「綺麗だ」
なにもない畑の一角をじっと見て、ヒナタは呟いた。
僕にはなにも見えなかった。広がるのは、小さな庭と青い空だけだった。
縁側でくつろいでいるヒナタのおじいさんが静かに話す。
「それは透明なひまわりだよ。植えた人と、その人に幸せを願われた人だけが見れるんだ」
ヒナタは取り憑かれたようにそれを見ている。呆然と目を見開く彼の横顔を見て、僕はなんだか寂しかった。そんな十二の夏だった。
僕はヒナタに誘われ、ヒナタのおじいちゃんの家に遊びに行った。八月はじめの真夏日、僕らは庭へ出て水浴びをしようとしていた。だというのにヒナタが畑のあいた空間に魅入られ、そこから動かないのだ。いつも苛烈な感情のままに行動するヒナタとは思えない静かな横顔だった。
「幸せを願われた人ってどういうことですか?」
「このひまわりはね、私がヒナタの幸せを願って種を植えたものなんだ。だからヒナタや私には見えるんだよ」
そう言われても、僕にはなにも見えないから確認できない。二人が僕をからかっているのだ。むっつりと頬を膨らませていると、ようやくヒナタがこっちを見て苦笑した。
「なんだ、拗ねてるのか?」
「そんなんじゃない」
「そんなに寂しいなら、俺がお前の幸せを願って埋めてやるよ」
ヒナタはそうしておじいさんから種をもらう。なんも変哲のないひまわりの種だ。畑の隅にそれを植えると、なにもない空間を眺めていたときと同じ目で僕を見るのだった。
「きっと綺麗な花が咲くよ」
ヒナタの声は自信に満ちていた。僕は拗ねてしまったことを恥じて、彼の視線から逃げるようにうつむいた。
「そういえば、今日は夏祭りがあるそうだ。よかったら二人で行っておいで」
「だそうだ。行こうぜ」
ヒナタはうつむいたままの僕の手を握る。顔をあげると、おじいさんが三人分のスイカを持ってきていた。さっき氷の入ったたらいに入れたスイカだ。きっとキンキンに冷えているだろう。
友人の家で不躾な態度をとってはいけないと、切り替えることにした。三人で縁側に座って、赤いスイカにむしゃぶりつく。ひんやりとした果汁が頬に染み渡った。水分を失った身体が生き返るようだった。
そうして夜、僕とヒナタは浴衣を着て夏祭りへ出かけた。僕は翠の明るい浴衣を、ヒナタは深い群青の浴衣を着た。
田んぼの道を抜け、こじんまりとした神社にたどり着く。小さくはあるが活気があり、ぶら下がった提灯は橙色に滲んでいた。屋台を見て歩く。紅くてらてらと輝いた林檎飴を二人で一本ずつ買った。
フリースペースにある小さな椅子に二人で座る。
「林檎飴ってどう食えばいいか分からないよな」
ヒナタは文句をたれながら、バリバリと飴を割って食べていた。人形のような容姿をしているが、実際のヒナタは雑で豪快で、怒ればすぐに殴ってくる苛烈な人間だった。
「舐めればいいと思うよ」
「コノハはよくそんなちみちみと食えるよな。俺には無理だ」
ひまわりを見ていたときの静けさはどこへ行ってしまったのか。いつもの快活なヒナタの姿に、少し安心した。透明なひまわりを目にしたときのヒナタは、別人のようだったから。
「そういえばさ、透明なひまわりって一体なんなんだ?」
「さあ。俺にも分からない。俺の家に伝わる魔法の花らしいぜ」
「なんだ、それ」
「でも、本当に綺麗なんだ。普通のひまわりとは違う」
「どう違うんだよ」
「黄色がさ、すげー鮮やかなんだ。なのに角度によって輝きが違ってさ。青く光ったり赤く光ったりする。お前も見てみろよ。俺が植えてやったんだから」
林檎飴をバリバリと噛み砕くヒナタの顔は、やはり少し大人びていた。
僕よりも先に食べ終わったヒナタは、赤い飴の絡みついた木の棒をゴミ袋に捨て、歩きはじめた。僕はまだ食べ終わっていないから、林檎飴を舐めながら後ろをついて歩く。すると、背中に強い衝撃がはしった。
「うわっ!」
ぐら、と身体が傾いで転んだ。なんとか膝をつくが、林檎飴は地面に落としてしまった。後ろを振り向く前に、男の子の敵意に満ちた声が響いた。
「都会人がでしゃばってんじゃねえよ」
突然向けられた敵意に、身体が凍りついてしまった。その声は前を歩いていたヒナタにも届いていたらしく、鬼の形相で僕を振り返る。
「大丈夫か、コノハ」
差し伸べられたヒナタの手を掴んだ。僕が立ち上がる頃には、男の子の背中は少し遠くにあった。
僕の無事を確認すると、ヒナタはこわい顔で男の子の姿を追いかけようとした。ヒナタの人形めいた顔は、怒りに染まると暗い陰が差す。誰をも屈服させるような迫力で怒り狂うので、こうなってしまっては手のうちようがなかった。
慌ててヒナタの肩を掴む。
「いいよ、ヒナタ。放っておこう」
「いいや。あいつに一発ぶちこまないと気がすまない」
ヒナタをとめたかったが、僕の手を振り払い駆けていった。ヒナタが喧嘩っぱやいのはいつものことなので、仕方なく追いかける。足が速いヒナタと、のんびり走る僕の距離はどんどん離れていった。
赤い鳥居をくぐる。階段の端に並んだ提灯を頼りに下っていった。足元がほんのりと照らされている。
長い階段を半分ほど下ったところで、下のほうから凄まじい音がした。
車が急ブレーキをかけた音に似ていた。雷が落ちたような音だったので、一瞬身が強張る。階段を抜けると狭い車道がずっと続いているのだ。逸る心臓をおさえて、階段を下りた。
階段を降りると、街灯のない車道に出た。そしてすぐ近くではバイクと、細身の少年が横たわっていた。
その場にいた大人たちが叫びながら少年を救助している。道端に転がった少年はピクリとも動かず、死人のような生白い足を群青の浴衣からさらけ出していた。
間違いようもない。僕より先を走っていたヒナタだ。
ヒナタだと認めた途端、身体がぶるぶると震えた。叫び声をあげることも、大声をあげて泣くこともできず、足が棒になった。背中にびっしりと冷や汗が浮かんで、あまりの寒さに、今が夏祭り中であるのを忘れてしまった。
祭りの囃子が、遠くに聴こえる。大人たちの叫び声も、遠くに聴こえる。
死体のようにぐったりと横たわったヒナタだけが、僕の視界で白く、色鮮やかに映っているのだった。
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