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井高野先生!
「井高野先生、質問があります」
豊里ちゃんは、座布団に礼儀正しく正座して、井高野先生に向かった。
「おや、何だい?豊里ちゃん」
「先生は、何の先生ですか?」
「おやおやこれは」
井高野『先生』は、閉じた扇で自分の頭をポンと叩いた。
「難しい質問だなあ」
井高野先生は常に和服姿。メガネをかけ、穏やかに笑う細身の男である。豊里ちゃんは、近所に住んでいる女の子で、やや理屈っぽいが真面目な子である。
「この掛け軸は先生が書いたんですか?」
豊里ちゃんは掛け軸を指さした。墨で描かれた山と滝、いわゆる山水画である。地味だが上品で、床の間に似合っている。『いたかの』という印も捺してある。
「ああ、それは水墨画にハマっていたときのものだね」
「ハマっていたんですか」
「元は油絵の具で普通の絵を書いてたんだけど、なぜかそっちに行っちゃってねえ。でも飽きたから、一番うまく書けたやつを掛け軸にして飾ったわけ」
「ということは、水墨画の先生なのですか?」
「いやあ、違うよ。僕ごときがプロを名乗ったら、本物のプロフェッショナルに呪い殺されるよ」
「では、普通の絵に戻ったのですか?」
「いやあ、それも飽きてねえ」
井高野先生は押し入れを開けた。上段には布団が、そして下段には、水彩絵の具、色鉛筆、油絵の具、折りたたまれたイーゼル、キャンバスに描かれた謎の絵などが入っていた。
「これは何の絵ですか」
「いやあ、パフォーマンスアートを試してみたくて、思いつくままに絵の具を散らして塗り重ねてみたんだけど」
「何だかわかりません。ただの失敗作ですね」
「はっきり言うねえ、豊里ちゃん」
井高野先生は苦笑いした。
「これを見る限り、絵の才能がないことは確かです」
「本当のことをはっきり言われるときついなあ」
「では、先生は何の先生なのですか?」
「さあ、何だったかなあ」
井高野先生は頭をポリポリとかいた。
「イーゼルの奥に何かありますね」
豊里ちゃんは下段の奥にもぐった。
「ああ、そこに穴があるでしょう」
奥の壁際の床には、本当に、人が通れそうなくらいの穴が開いていた。
「欠陥住宅ですか?」
「いやあ、違うんだよね。実は昔、秘密基地を作ろうと思ったことがあって」
「小学生ですか?」
「いやいや。裏庭にテントを立ててみたんだけど、地面が崩れちゃってね」
「地盤沈下ですか?大事件ですよね?」
「テントごと穴の下に落ちちゃってねえ。どうしていいかわからないから雑草の妖精に聞いたら、壁に穴を掘れば家に帰れるって言われて」
「ツッコミどころ満載すぎるので一つずつ検証しましょうか」
「豊里ちゃんは真面目だなあ」
「雑草の妖精とは何ですか?」
「あれ?豊里ちゃん、外で遊んだことない?タンポポで花輪を作ったり、シロツメクサで冠を作ったり」
「今度は幼女ですか?」
「いやいや、自然の中で遊んでいたら妖精の気配を感じるでしょ?」
「いいえ、全く感じません」
「はっきり言うねえ」
「もしかして、妖精とか天使とかそういう神秘的な方面の怪しい先生だったんですか?」
「神秘が怪しいとは限らないでしょう」
「妖精に穴を掘れと言われたんですよね?それって、羽が生えた女の子みたいなのが飛んできてそう言ったんですか?」
「いや、そういうはっきりした見た目じゃないんだけど、いわゆる超感覚みたいな、第7チャクラで直に聞くような感じかなあ」
「よくわからないんで次行きますね」
「切り捨てるの早すぎない?」
「先生は、外の壁に穴を掘ったわけですね?」
「そうそう!そしたら本当に押入れの下にうまくつながってねえ。妖精の言葉通り家に帰れたわけだ」
「自分の家の基礎を破壊してませんか?」
「基礎?」
井高野先生が急に不安げな顔になった。
「あ、もしかして一度見てもらったほうがいいのかなあ」
「今頃気づいたんですか?家が崩れるまえに直してもらって、穴も埋めてくださいね」
「えぇー?思い出の穴なのに」
「そんな思い出はそれこそ穴にでも放り込んでください」
「厳しいなあ」
豊里ちゃんは押し入れから出て、家の2階に向かった。古い家にありがちな急な階段を登ると、そこには箱や物がうず高く積まれた小さな部屋があった。
「匂います。挫折した趣味の匂いがぷんぷんします」
「最初から挫折って決めつけるのかい」
「だって全てがホコリまみれじゃないですか」
豊里ちゃんは、壁に無造作に立て掛けてある何かをつかんでみた。
「釣り竿ですか?」
「そうそう、川で魚釣りに挑戦したことがあったなあ。懐かしいなあ」
「今はやってないんですよね?」
「やってないね」
「次行きましょう」
「いやいやいや、思い出くらい聞こうよ」
「あるんですか?」
「釣った魚が大きすぎて、逆に引っ張られて川に落ちちゃってねえ。通りすがりの人に助けてもらったのはいいんだけど、許可もなく釣りなんかするなって怒られちゃったんだよね。釣りをするのに許可が必要なの、知らなかったんだよなあ」
「倫理的に問題外です。次行きましょう」
「えー……」
もっと喋りたそうな井高野先生を無視して、豊里ちゃんは手近なダンボールを開けた。そこには古びたカメラと、筒型のフィルム数本があった。
「カメラやってたんですか」
「ああ、そうそう。写真家さんの展示を見て感動しちゃって、自分でも撮りたくなってねえ」
「撮った写真はどこにあるんですか?」
「それが……現像してないんだよね」
「えっ?」
「自分で現像できるように暗室を作ろうと思ったんだけど、ほら、昔の写真って手順がいろいろ面倒だったからさあ、どうしようかと考えているうちに、気がついたら世の中がデジカメ主流になっちゃって、現像できるカメラ屋さんが近所に無くなっちゃって」
「何年放置したんですか?」
「今ではスマホで撮れるしねえ。写真もわざわざ印刷しなくなったよねえ。世の中って変わるんだなあ」
「ていうか先生、今いくつなんですか?」
「それは想像に任せようかなあ」
「もしかして、オヤジを若見せさせる先生なんですか?」
「オヤジ……」
井高野先生は悲しげな顔をした。
「あれ?傷つきました?」
「いや、次行こうか」
井高野先生は、自ら部屋の奥の石の塊に近づいていった。
「これは彫刻に……」
「挫折したんですね、次行きましょう」
「いやいや、これはけっこう真面目に作ってたんだよ。ロダンみたいなのを目指してねえ、女性像を作ろうとしたんだけど」
豊里ちゃんは白い石の塊をじっくりと見た。しかし、かなり荒く削ってあるだけで、なんの形にもなっているように見えない。もちろん人にも見えない。
「根気も技術も彼女も足りていないのが、見ただけでよくわかります」
「痛いところをつくねえ」
「井高野先生」
「何?」
「彼女いたことないですよね?」
「あれ?断定しちゃうの?」
「誰にでもすぐわかります。次行きますね」
豊里ちゃんは白い像の横に置かれたダンボールを開けた。そこには和風の皿や壺がいくつか入っていた。
「百円ショップで買ったんですか?」
「どうして安物と決めつけるのかな?」
「じゃあ、本物の骨董なんですか?」
「ネットで買ったんだけどね」
「次行きましょう」
「いやいやいや話が」
「なんとなく『ネット』で想像がつきました」
「いや、本当に『祖父の古い蔵から出てきました』っていう古いものなんだってば」
「これ、似たようなの近所で売ってますよ」
「それが昔の復刻版なんだよ、きっと」
「で、何で買ったんですか、この皿と壺」
「古物商をやろうと思ったことがあって」
「この部屋のもの全部売ったらいいんじゃないですか?あ、石像は絶対売れませんけど」
「とにかくね、まず目利きになろうと思って、そしたらまず実物を手にとって研究しなきゃいけないわけじゃない」
「で、研究してどうなったんですか?」
「それがねえ、ネットオークションに古いプレステが出品されていてねえ」
「なんとなくオチがわかってきましたけど、続けてください」
「昔やっていたゲームをまたやりたくなって、買ってみたんだけど、やり方をすっかり忘れていてねえ」
井高野先生が棚の扉を開けると、そこには、古いプレステとファミコンの本体とソフトがいくつか入っていた。
「結局また使わなくなってねえ」
「いろんなことにいっぺんに挫折してますね」
プレステが入っていた棚の上が本棚になっていた。そこには、英語、中国語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語……そのほかにも、あらゆる国の言語の教科書が並んでいた。しかも、全部新品同様で、手に取られた形跡はない。
「先生」
豊里ちゃんは、答えが予想できつつも、一応尋ねてみた。
「この中に、一つでも、まともに話せる言語はあるのですか?」
「いやあ、無いなあ」
井高野先生は顔をしかめながら、また頭をポリポリとかいた。
「かろうじて英語は少しわかるかなあ」
「それは私でもわかります。学校で習うので。問題は、なぜこんなにあらゆる国の言語がここに並んでいるのかということです」
「いやあ、僕も若い頃はね、『世界中を回って、全ての言語を習得したい!』という夢を持っていたんだよね」
「あまりにも無謀な夢ですね」
「そうだねえ。でもね、若い頃って無謀なことも可能な気がすること、あるよね?」
「そうですか?」
「豊里ちゃん、夢はないの?」
「何をやるにしても、とりあえず挫折しないでやり遂げる人にならないと駄目かなと」
「……ともかく、本って、集め始めると止まらなくなるんだよね。外国語の教科書って、日本語のコラムも何ページかついてるから、言語が習得できなくてもその国のことがわかるし」
「メルカリで売りましょう。珍しい言語のやつは高く売れるかも。いや、いっそブックオフ送りにして一気に片付けましょう。そのほうが手っ取り早くすっきりしますし、処分に挫折する可能性も低くなりますよね」
「いや、でもまた使うかもしれないし、外国から来た人がうっかりこの辺に迷い込まないとも限らないよね?」
「日本語と英語で対応可能です。次行きましょう」
豊里ちゃんは、部屋の真ん中にたくさん積まれている小箱を一つずつ下ろして、中身を見てみた。テニスラケットとボールとウェアが入った箱、バドミントンとラケットと羽とウェアが入った箱、ゴルフボールとウェアが入った箱があって、しかもそれらは全て新品同様に使われた形跡がなかった。
「全部、始める前に挫折したんですか?」
「いや、それはたぶんネットで売ろうと思ったんだよね。確か、ゴルフクラブだけ売れてあとは見向きもされなかったなあ」
「メルカリに……出しても売れないかなあ」
豊里ちゃんは疲れてきていた。
その後も、碁や将棋、オセロの盤、使われていない筋トレグッズ……さまざまな趣味のものが出てきたが、井高野先生はその全てに、始めてすぐに挫折していることがわかった。
「わかりました」
豊里ちゃんは勝手に結論した。
「先生は、挫折のプロです!」
「嬉しくないなあそれ」
「奇遇ですね、私もです」
「どこまでもきついなあ、豊里ちゃん」
「だって、近所に『近隣住民から「先生」と呼ばれて慕われている人がいる』と聞いて、何かすごいことを教えてもらえるのではと……ええ、期待した私がバカでした。住んでいたのはただの何にもできない人でした」
「それは悪いことをしたなあ」
「ていうか、何にもできないのに先生って呼ばれてるのはなぜなんですか?」
「いやあ、それはねえ」
井高野先生がまた頭をポリポリかいた。
「この家を見つけた時、和風の古民家っぽい佇まいが気に入ってねえ、この雰囲気なら和服のほうが合うなと、ずっと和服で過ごすようになったんだよね。そしたら近所のおばちゃん達が「なんだか先生みたい」って言い出して、いつのまにか「井高野先生」になってたんだよね」
「近所のおばちゃん……」
豊里ちゃんは絶句した。
「そうそう、そういうもんなんだよ。『先生』ってものは自ら名乗るんじゃなくて、まわりの人が勝手に呼び始めるものなんだ!そうだそうだ」
井高野先生は一人で納得していたが、豊里ちゃんはその場に崩れた。
「あれ?豊里ちゃん、大丈夫?」
「悔しい……」
「えっ?」
「こんな何にもできない奴に真理みたいな言葉でまとめられた!悔しい!」
豊里ちゃんは泣きながら拳を床に叩きつけた。そして、飛び上がるように立ち上がると、
「近所中に真実を言いふらしてやる〜!」
と叫びながら走り去っていった。
井高野先生はしばらくその場に佇んで、今のは一体何だったのだろうと考えたが、すぐにそれにも飽きてしまった。そして郵便受けに入っていたカルチャースクールのチラシを見て、そろそろ新しい趣味が必要かなと考えていた。
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