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私の家には「透明さん」がいる。透明さんは透明だから目には見えないけれど確かに存在する。
普段、透明さんは物音を全く立てず静かに家にいるけれど、玄関を出入りするときだけは軽く扉を叩く。透明さんは気まぐれに外出することがあって、朝に出かけて夜に帰ってきたり、昼に出かけて数分で帰ってきたりする。
家には私と透明さんの他にも、3才になったばかりの息子と夫がいる。私たち家族は透明さんの存在を認めている。
でも最初からすんなりと透明さんの存在を認めたわけではない。
風のない日なのに扉を叩く音が聞こえて怖かったし「何か」がいる家になんか住みたくなかった。それが原因でもともと悪かった家庭の雰囲気がさらに悪化した。「私と息子の気のせいだろう」と言う夫と喧嘩になって、私は物音に敏感になり普段からイライラするようになってしまった。
でも、息子が「何か」を透明さんと名付けてから、がらりと変わった。
存在を認め、名前を付けることで、私の中で「何か」への拒否感が薄くなった。透明さんは全く害を及ぼさないし、息子は透明さんを家族の一員として扱っている。私も家族のように感じ始めていた。
昨日、数年ぶりに私と夫が喧嘩した。原因は教育方針の違いだ。息子を地元で有名な私立小中高一貫学校と自由な公立小学校のどちらに行かせるかで意見が分かれた。夫は自分が私立に行かされて遊ぶ時間を削ってまで勉強させられたのが嫌だったらしく、公立を勧めている。対して、私は自分が私立に行って質の高い教育を受けられたのが嬉しかったし、勉強が苦にならなかったので私立を勧めている。
話し合いがヒートアップして、私たちは大声で罵倒していた。
すると、2階の自室で寝ていたはずの息子がものすごい勢いで玄関に走っていった。
私たちは、ついさっきまで喧嘩していたことも忘れて息子に声をかけた。
「ちょっと、こんな夜遅くにどこに行くの!?」
「危ないから出かけるなら明日にしよう!?」
息子は無表情で「出かけたいんじゃないよ……」と言う。
「なら、急に走ったりしてどうしたの?」と私が聞こうとした瞬間ー。
「透明さん!おかえりなさい!」
息子は満面の笑みを浮かべて玄関の扉を見るが、透明さんが扉を叩く音は聞こえない。
そういえば最近、透明さんが扉を叩く音を聞いていない。たまたま私が家にいない時に透明さんが外出しているのか、それともずっと外出していないのか、と思っていたけれど違うのかもしれない。
「ねぇ今、扉を叩く音が聞こえなかったけれど、どうして透明さんがいるって分かったの?」
「透明さんは力が弱まっていて、もうすぐ本当に消えちゃうんだ…。僕には透明さんはこの家にちゃんといるって分かる。でも何で分かるのかわかんない…」
夫は透明さんについて話をした。
「透明さんの正体はポルターガイストなのかもしれない。」
ポルターガイストは、思春期の少年少女といった心理的に不安定な人物の周辺で起きるケースが多いとされている。息子は私たち夫婦が頻繁に喧嘩しているのを知ってずっと不安を抱えていたのかもしれない。それで無意識に扉を叩いていたのだ。しかし大人になるにつれて徐々に能力を失い、ついに音が出なくなったのだ。
確かに思い返してみると、透明さんが扉を叩く音がした日の直前は、喧嘩していて私も夫も機嫌が悪かった。幼い息子からすると、両親が不機嫌な日が続いて不安だっただろう。
今夜、3人で夜ご飯を食べた後に私たちは息子に謝った。
「今までママもパパも喧嘩ばっかりしてごめんね」
「いっぱい不安にさせてごめん。もうしないからね」
息子は少し驚いていたが、すぐに笑顔になった。
「許してあげる!ママもパパも僕のために喧嘩してたの知ってるし。でも、もう僕のためでも喧嘩しないでね」
喧嘩の原因だった息子の進学先だが、息子は地元の私立学校ではなく、少し離れた場所の私立学校への進学を選んだ。そこには普通科にあたる総合コース以外にも音楽や芸術、スポーツのコースがあり、途中からでもコースを変更できる。生徒の個性と主体性を尊重する理念や勉強も遊びものびのびとできる施設が気に入ったらしい。夫も「これなら安心だなぁ」と納得していた。
息子はその学校の試験問題と解答を見て「これなら今からお勉強していけば間に合いそう」と言っていて本当に合格した。息子は自分のことをちゃんと分かっている。私たちが勝手に何でも決めるより本人が選ぶほうが良いのだ。
ちなみにあの日以来、透明さんが扉を叩く音は聞こえていない。
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