ありがとう【滅語】

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ありがとう【滅語】

“ありがとう”  私は今朝もその言葉を親友に言ってみた。だけど彼女は今日もニコッと微笑み返すだけである。この言葉は“感謝”というものを伝える時に使う言葉らしい。そして私はこの頃いつも考えている。“感謝”とは一体何なのだろうかと…。  私が祖父の家に代々伝わるその古い本に書かれていたその一文を読んだのは半年ほど前の事だ。その本はホコリ臭くてボロボロで大部分が虫食いや劣化で欠損していた。殆どのページが読めなかったのだが、私はその一文に強く()きつけられた。 『彼女に感謝を伝える時には“ありがとう”の一言で十分だ。そうすれば言われた側は嬉しいし、幸せな気持ちになれるのだ』  私はその一文に何故か強い感動と何とも言えない感情を覚えた。理由は分からないし、言葉の意味も分からないのにだ。それは理屈では無かった。何故かその言葉が私の心を強く揺さぶるのだ。  その一文の前後は欠損していて文章から意味を推測することが出来ないし、ネットや文献(ぶんけん)を調べてみてもこの“ありがとう”と“感謝”という言葉は見つからなかった。  私はあの日、“ありがとう”という言葉を知ってから何かフワフワした気持ちなのだ。授業にも身が入らないし、夜眠りにつく時もその言葉の事を考えると眠れなくなったりもする。『“ありがとう”という言葉は呪いなのではないか?』とさえ思えてくるほどに私はその言葉に取りつかれているのだ。  だからと言って心身をきたしているとか、気分が深く沈み込んでいるわけでは無く、私は至って元気なのだ。だけど“ありがとう”という言葉が頭から離れないし、気になって仕方がない。そんな浮ついた私は最近の親友の異常にさえ気付くことが出来なかったのだから…。 「だから最近寝付きも悪いのよ。ほんと『ババアかよ!』て自分で自分にツッコみたくなるよ」 「…。大変だね…。その言葉が何なのか分かると良いね…」 「そうなのよねー。私も色々調べてはいるんだけど、何にも手掛かりが無いの。もうこんな研究辞めちゃおうかなー」 「…。ちゃんと続けないとダメだよ。きっとその意味がちゃんと分かる時が来ると思うから…」 「そうだと良いんだけどねー。そう言えばそっちはどうなの?人が生きる意味だっけ?」 「私の方は一応順調かな…。そろそろ核心に迫れそうだよ…」 「いいなー。私もそんな感じの哲学的な答えのテーマにすれば良かった…。こんな訳の分からない古本に出でくる謎の言葉なんかをテーマにしたばっかりにこんなに苦労するなんて…。人生損してるわ、マジで…」 「…」 「あ!そうだ!日曜日空いてるでしょ?」 「え…、まぁ…」 「遊びに行こう!たまにはパーっとね。ね?」 「…。分かった。行こう…」 「じゃあ日曜の朝九時に迎えに行くから」 「うん…。バイバイ…」 「じゃあ!」  私は親友に別れを告げると家までの帰路を急いだ。もう辺りが薄暗くなってきているからだ。初冬の風はこんなにも冷たかっただろうか?私の心には妙なモヤモヤが増幅していた。そして五分ほど歩いた頃であった。彼女の言葉が強烈にリフレインして私の脳裏を駆け巡った。 ………「バイバイ…」………「バイバイ…」…… ‼︎ 私は今歩いて来た道を全力で走って引き返した。今時は殆ど使わない言葉だ、“バイバイ”だなんて。“バイバイ”は最近SNS上での流行りの隠語だと私はようやく気が付いた。  私は全力疾走の最中、最近の彼女のおかしかった言動がフラッシュバックしていた。その事に今、気がついたら自分が情けなかった。いつもの道がとてつも無く遠く感じられた。私はただ願う事しか出来なかった。  そして私は高架橋の欄干(らんかん)から上半身を大きく乗り出している親友を見つけた。私は彼女に飛びつくと、その勢いのまま歩道上を二人で数度転げ回った。二人とも擦り傷だらけの砂まみれになったが無事だった。 「何考えてるのよ‼︎」 「……」 「日曜遊びに行くって約束したじゃない‼︎」  私は彼女を強く抱きしめたまま号泣した。自分の不甲斐なに嫌気がさす。自分の鈍感さが許せない。さまざまな感情が溢れ出てきた。  でもよかった…。その感情だけで私は救われた気がした。本当によかった。今はその感情しか出てこなかった。  彼女も泣いていた。その声と震えから彼女の苦悩とか辛い気持ちが伝わってきた。 「…ごめん…」 「いいの…!」  私たちはしばらくの間、大いに泣いた。互いの涙が枯れた頃にはもうすっかり夜になった。いつにも増して星が輝いている。涙と共に(わだかま)りとか悩みが吹き飛んだ私達は笑っていた。私達はもう大丈夫だという事がすぐに分かった。  私達は前までのように他愛の無い話しで笑いながら家路についた。何箇所か擦り剥いて汚れているが気にならなかった。前までのように回り道をしながら出来るだけゆっくりと…。  家に帰ると私達は両親にこっ酷く怒られたが、そんな事はどうでもよかった。今はただただどうでもよかったのだ。  そして今日は約束の日曜日だ。私達は久しぶりに羽を伸ばして休日を満喫している。私はとても楽しかったし、彼女もとても楽しそうだ。そんな彼女を見ていてると私の心には不思議な感情で満たされていた。  そして彼女は唐突に言った。 「ねぇ」 「?」 「いつもありがとう」 「その言葉…、こちらこそありがとう」  私は照れ臭かったが、それを彼女に悟られないように少し顔をかがめた。彼女はそんな私を見て笑っていた。私はそんな彼女を見てよけいに照れ臭くなるのだった。  この時、彼女の心もにもあの不思議な感情で満たされていたそうだ。そして私達の間に一つの答えが出た。これが感謝なのではないかと。“ありがとうと”とはこの感謝という感情を伝える為の言葉ではないかと…。  この瞬間、二人によってはもちろんだが、新人類にとっても二人は大きな一歩を踏み出していた。  太古の昔に忘れ去られてしまい、滅んでしまっていた感情である“感謝”という感情とそれを伝えるための“ありがとう”という言葉が数万年ぶりに復活したのだから…。終
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