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「会社は、ここから近いの」
「この店の前の通りを、駅と反対方向に歩いて、すぐのところです。これまで何度も、この店の前を通り過ぎていたのに、ここに来たのは、実は、今日が初めてなんです」
「じゃあ、俺と同じだ」
「そうでしたか。てっきり常連の方かと」
「初めてだけど、心地良い店だよね」
「本当に」
「サラちゃんとも出会えたし」
「あの。私、どこかで、岸本さんとお会いしたことがあるような、気がしたんですが」
「いや、初対面だよ。ほら、よくあるような顔だから。ええっと、サラちゃんは、日本に来てから、どこら辺に住んでたの」
「最初の4年間は、神奈川県に住んでいて、そのあと、母の実家の品川に越してからは、ずっと東京です」
「品川は、実家だったのか⋯⋯」
「私の母は、毎日遅い時間まで働いている、私のことが心配らしくて。もう、立派な大人だっていうのに」
「母親って、そういうもんじゃない。いつまでも、なんだかんだ心配なんだろうね」
心が打ち解けて、気が緩んだのか、なぜか頬を冷たいものが流れ落ち、そのうち、ポロポロと溢れて出して止まらなくなった。
母に心配されるほど過酷な状況が虚しいのか、夢へ向かっている手応えがない状況が悲しいのか、その全てが混ざり合ったからか、よく分からない感情の涙だった。
自分の話ばかりして、勝手に泣いて。
相当迷惑な女だったと思う。
それでも岸本さんは、優しい顔で時々頷きながら、話を聴き続けてくれた。
でも、本心はどう思っていたのだろう。
自分のことばかり話し続ける私のことを。
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