第8章 追憶 (9回目)

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 しばらくして、その色に歳月を感じさせるような、深い黄金色をしたウイスキーが入ったグラスが、コトリと小さな音を立てて、俺の前に置かれた。 「ウイスキーは森林浴と同じくらいの、くつろぎ効果があるらしいですよ。樫の木で作られた樽の中で、長い間の貯蔵と、熟成をさせるので、お酒の中にも木材由来の香りが溶け込んで、リラックス効果を生むと言われています」  バーテンは、特徴的な歯切れの良い口調で、言葉の一つ一つを区切るように、俺に丁寧に説明をした。  訊いてもいないのに――。 「ウイスキーの語源は、『命の水』という意味の北欧の言葉からきているそうです」 「命の水⋯⋯」 「はるか昔の人々を癒す役目も、ウイスキーにはあったのでしょうね」 「あっ、美味い⋯⋯」 「お口に合ったのなら、良かったです」  バーテンとウイスキーの話をしている間に、他の客は帰ってしまったようで、店にはいつの間にか、二人だけになっていた。  静かな店内には、二人の話し声と、ジャズのBGMだけが、小さく聴こえている。  何気ない話と、ウイスキーの香りに、疲れていた心が癒されていくのを感じていた。  この2ヶ月間、ずっと俺の周りには霧のような焦燥感が、まとわり続けていた。  そのモヤモヤとした感覚が、どこかから吹いて来た風に流されて、徐々に心が軽くなるような、そんな気がした。   それから、バーテンがあの言葉を掛ける。  「お客様、やり残したことがありますね」と。
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