第1章 誕生日 (1回目)

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 とめどなく溢れる涙が、ようやく乾いた頃、ワインの酔いは覚め始めていた。  風船が萎んでいくように、冷静さを取り戻すと、今度は、自分の化粧が崩れてるんじゃないかと、気になり始めた。  かなり泣いたし、酷い顔をしているはず。  自分の顔を想像したら、無性に恥ずかしくなって、おもむろに顔を手で隠した。 「あの。ちょっとお手洗いに⋯⋯」  俯きがちに彼に声を掛けると、バックを持って、化粧直しに席を立つ。  お手洗はどこだろう――。  ちょうど目線に入った人影が、奥の通路へと消えていった。あぁ、あそこかな。  すれ違いざまに、肩がぶつかりそうなくらいに狭い幅の通路を進んで行く。  経年変化が感じられる、木目の壁に付けられた照明が、ぼんやりと通路を飴色に照らし、グレー色のタイル床までも、同じ色に染めていた。やっぱり好きだな、このお店。  通路のつき当たりを右に曲がって、しばらくそのまま真っ直ぐに進んで行くと、そこはなぜか、行き止まりになっていた。  正面のレンガ壁には、長身の男性でも全身が映せるくらいに大きな鏡が掛かっている。  何かがおかしい――。  人影がこちらの方へ消えたはず。  見間違いか、気のせいだろうか。  もう酔いは、だいぶ冷めているのに。  それにしても、なぜ、人が来ない場所に、こんなに大きな鏡が掛かっているのだろう。  その鏡に映る自分が歪んで見えた。  やだ。まだ、足元がフラつくのかな。  だいぶ飲みすぎちゃった。  でも、気分はそんなに悪くない。  いまだに「飲みニュケーション」だなんて、化石的文化の存在を信じる、職場の男性上司たちと行く、居酒屋での酔い方とは、明らかに違った。  もっと大きな幸福感に優しく包まれているような、そんな感じ。  床が生き物のように動いて見える。  さっきまでは、気を張っていたから、平気だったのかもしれないけれど、いよいよ、酔いが回り出したのかも。やだなぁ。  慎重に壁をつたいながら、通路を引き返すと、トイレの表示が目に入る。 
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