青い錠剤

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 その患者は暗い顔ですわっていた。ときおり目が泳いでいる。 「……で、先生、天井の隅からこっちを見ているんです。顔だけが浮かんで。ひどく傷ついていて、気味悪くてゆっくり観察なんかできませんが、女のような子供のような感じです。先週からです」  早口で、頭に浮かんだ言葉を全部話そうとするので聞き取るのが困難だったが、医者はさえぎらないようにした。あんな事故にあったんだから、体だけではなく心のけがもなかなか治らないのは当然だ。 「その顔をはじめて見た時、どうしました?」 「あ……、びっくりして、手に持っていた雑誌を投げつけました。当たったと思ったんですが、なにも反応がなくて……。それで部屋を飛び出て、しばらく外をうろついて帰ったら消えていました」 「そんなことが毎日起こるんですね?」 「はい。それで、そのうちにその顔がでるタイミングが分かったんです」  医者は黙ってうなずき、話の先をうながした。 「先週から薬を変えましたよね。そのなかの青い錠剤。一日一回のむやつ。あれをのんで一時間ほどで出るんです。なんとかなりませんか。薬を変えるわけには」 「そうですか。しかし、あの薬はもちろん、ほかの薬の副作用にも幻覚というのはないのですが」 「前の薬にはもどせないんですか」 「しかし、前はぼんやりした感じが一日中続いて意識がはっきりしないとおっしゃっていましたよね。生活に差し支えますよ」 「ええ、たしかに青いのをのむと前以上にまわりがはっきりするのですが……」  患者はひざの上で手首をもんでいる。治療をはじめた時にしていた癖が再発している。あまり良くない兆候だった。  この患者は昨年起きた工場の事故で崩れたがれきに閉じ込められ、救助されるまで数時間、遺体と顔を合わせる体勢で残骸にはさまれていた。その衝撃は大きすぎた。いまも足が不自由だし、記憶にも障害があるが、心の傷がいちばん大きい。そのせいでいまだに仕事には復帰できていない。治療をはじめたころは自傷もあった。  手首をもむのはその傷跡をなでることで、実際に刃を走らせるかわりにしているのだと、医者は判断していた。  それでも薬の変更が功を奏し、ひとりで日常生活が送れるようになったのに、こんなことになるとは。 「わかりました。薬については検討しましょう。しかし、その顔なのですがご存知の方ですか」 「いいえ、見たこともありません。親戚にもいませんし、知り合いのだれにも似ていません」 「天井の隅から見ている以外になにかしますか。話しかけてくるとか」 「薬を飲んでから最初に浮かぶのは家の中のいろんな場所なんですが、こっちを見ているだけでなにもしません」 「ほかの方には見えますか」 「ええと、実はまだうちあけていないんです。心配をかけたくなくて。でも、その顔があるところを見ても妻や息子は無反応です。たぶん、わたしだけなんじゃないかと思います。あの、今日相談に来たのは黙っていてもらえますか」 「もちろんです。秘密は厳守します」 「ところで、今日の分の薬は飲みましたか」 「はい、ちょうど一時間ほど前です」 「いかがですか」 「ええ、先生のうしろの天井。そっちです」  医者は指さす患者につられて思わずそちらのほうを見た。一瞬後、苦笑いした。 「そうですか。とにかく、薬は切り換えましょう。似た作用のべつのものにします」 「ありがとうございます」  医者は出ていく患者を見送り、ため息をついて処方箋を書いた。青い錠剤ほど強くない薬だ。意識はぼんやりし、周囲の認識がはっきりしなくなるが、治ってもらうためには一時的にでも見えないようにしなければならない。  あれは心の傷をいやすにはいい薬なんだが、専門的な訓練なしで周囲がよく見えるようになるからな。  この治療は思ったより長引きそうだ。医者は患者の書類を呼びだした。治療の一環として見せてもらった家族写真を開く。やはりそうか。  まずは、家族の死を受け入れてもらわなくては。それには、当の家族の協力も必要だ。  医師は、さっきのところを見て言った。 「あなた方の気持ちはわかりますが、不幸な事故だったんです。もう会いに来るのはおやめなさい」 (了)
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