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私は思わず息を呑んだ。
3月11日の空は、とてもよく晴れている。
遠くに聞こえていた潮騒が、耳の底から消えていた。
潮の香りを孕んだ海風が、私の茶色い髪と喪服のスカートを揺らしている。
最後に胸の奥が、強く締め付けられた。
驚くほどの偶然というものはこの33年という人生の中で何度か目にしてきたが、目の前の光景が全く信じられないということは初めてだと思う。
私は10年前に死んだ恋人を供養する慰霊祭に参加するために、わざわざこの日を選んで神戸からこの岩手県大船渡市へと足を運んできたはずだ。
しかしその供養すべき相手はいま、大学の卒業を控えた別れの朝に最後に見た黒い短髪のまま、私と同じく黒い服を身にまとい、数メートル先の自動販売機でコーヒーを買おうと腰をかがめたままこちらを不思議そうに見ている。
眼鏡こそ当時のものとは違ったが、掘りの深い双眸と太めの眉、何度も重ねた唇の形はあの朝に見たそのままだった。
震災で津波にさらわれて命を落としたはずの男と、田舎が嫌いだというくだらない理由で、どれだけ誘われてもかたくなにこの地を訪れなかった女。
そんな二人の間にあったのは、ほんの数秒の沈黙だったと思う。
その沈黙は、機械的な踏切の音でふいにかき消された。
青空を掻き取るように降りてくる遮断器に合わせるように、知明はゆっくりと私に近づいてくる。
私は反射的に後ろへとよろめくが、なぜか逃げ出そうという気持ちにはなれなかった。
知明の足元からは影が伸び、そしてうまく表現できないが、ちゃんとその動きには人間臭い何かがあった。
「もしかして、美紗……、園部美紗さん?」
名前を呼ばれ、後ずさる私の足が止まる。
私は小さく首を縦に振り、肯定の意思を表した。
それと同時に、東日本大震災の死亡者欄にその名前を見つけても、なおこの町を訪れることを拒み続けた後ろめたさが、巨大な波となって私をかたどった薄い膜を一気に押し流した。
「あんた、知明なん? 生きとったの? ……そんなら、なんで連絡してくれへんのよ!」
私が絞り出した言葉をかき消すように、踏切の向こうを変わった形のバスが走り抜けてゆく。
タイミングの悪さも相まって、知明の前でいちども流してこなかった涙が、言葉の勢いを借りていともたやすくあふれ出す。
知明が複雑な表情を浮かべているのが、滲む視界の中でも分かった。
私はこの困ったように笑う顔が特に好きで、意図的にそれを引き出せるように常にイニシアチブをとっていた。
時には難題を吹っ掛け、また時には別の男からのアプローチを匂わせ、私の方が身長が高いことも合わせていつでも自分の視線の下に知明を置いておくことに腐心していた。
そしてベッドの上で繋がっているときも私は切なそうに喘ぐ顔を見降ろしながら腰をくねらせることで、快楽とともに自分という存在を肯定してきた。
……本当は脆くて空虚な自分を吐露したいと願いながら。
「まさが、この町さ来てけるなんて思ってながった。 なんて言ったらいいのが分がらねぇけんと……久しぶりだな」
私の涙は驚きの中で急速に勢いを失くしてゆく。
知明はこの10年ほどの間に、初めて会ったときとおなじ強い東北訛りに戻ってしまっていた。
それが悲しかったわけではないが、目の前にいる知明はかつての自分がよく知る人物ではない、不意にそんな感覚が胸に押し寄せた。
「言葉が戻ってしまっとうけど、どないしたん?」
知明はまた私の好きな顔になって答える。
「お前ど別れで、こっちさ戻ってもう11年だもの。そりゃあ元にも戻るさ」
そう言って寂しそうに笑う知明は、なぜだかどこか楽しそうにも見えた。
「あんた、関西の言葉には染まらへん言うて、無理やり喋れもせん標準語なんか使うとったもんな。あれ、滑稽やったで」
思いもしていなかった再会にタガが緩んだのか、言うつもりのない悪態が口を突いた。
しまった、と思いながら知明を見ると、寂しそうな笑顔から垣間見えていた楽しさは消えていた。
「美紗は変わってねな。なんにも」
その台詞は本来であれば肯定的な意味を含むはずだが、知明の目には僅かに嫌悪が浮かんでいた。
恋人時代、私には決して見せなかった表情に胸の奥がどきりとする。
罪悪感だろうか、それとも羞恥心だろうか。
いずれにせよ、あまり認めたくない感情が私の口をより滑らかにする。
「まあそんなんええわ。知明、質問に答えてへんよ。なんで無事やって連絡寄こさへんかったん?」
出来るだけ強気に出てみたが、知明は表情ひとつ変えることなく口を開く。
「市内で俺と同じ名前の人が亡ぐなった。俺の双子の弟も津波で亡ぐなった。その情報が混ざった。そんな状況でいったいどれだげの人さ連絡すればいい?」
ぶっきらぼうな物言いに、私は思わず、ああ、と声を漏らす。
言われてみれば確かに、知明の名前を見つけたことにショックを受けた私は確認の電話すらせずに、ただ知明の死を事実として受け入れてしまっていた。
あんなに好きで、あんなに謝りたかった相手の死を、いとも容易く。
「俺は自分の地元や家のごど、お前さ話さながったよな。興味なさそうだったし、お前はすぐに自分の話さ持っていぐがら、話す気にもなんねがった」
私は驚いて知明を見る。
初めて知明の口から否定的な言葉を聞いた私の中に、僅かな怒りが芽吹く。
「弟さんのことは可哀そうや思うけどな、知明、どないしたん? いつから私にそんな口きけるようになった? ずっと私に頭上がらんかったのに」
私の知らない場所で男としての強さを手にした知明の言葉が、薄っぺらな私の心に重く響いた。
「そんでもな、元恋人にさえ連絡寄こさへんのは失礼ちゃうか? こっちは理由も言わずにいなくなられた挙句に、あんたが死んだ思うとったんやで? それを……」
「んだば、なしてお前がら電話してこねがった! 地震のあど、さすがにプライドの高いお前でも連絡してけるんでねえがって、そしたら本当のごど話そうって待ってだんだぞ!」
下を向きながら吐き出した知明の言葉は、叫びに近かった。
私の中に広がる虚構をいくら探っても返す言葉は見つからず、私は下唇を噛んで拳を握り締めた。
電話をしたくなかったのではない。
知明の言うとおり、今も私を苛む無駄に大きなプライドと過去の呪縛がそれを許さなかったのだ。
不意に潮騒が耳に戻る。
「悪がった。でっけえ声なんか出して」
知明は長い沈黙のあと、そう言って手に持ったコーヒーを飲み干した。
それから近くにあったゴミ箱に空き缶を投げ入れながら、軽やかな動きでこちらを振り返って口を開く。
「昼ごはん、まだだべ? せっかくだがらドライブさ行ぐが? 供養しさ来た相手ど一緒に」
その表現に思わず笑ってしまったことで毒気を抜かれた私は、心の中で負けを認めた。
「私も言い過ぎた。あんとき電話せえへんかったこと、ごめんな」
潮騒に背中を押されたのか、今まで口にしてこなかった知明への謝罪がするりと喉から零れる。
知明は目をつぶって何かを考える様子を見せたあと、手をひとつ叩いた。
「よし、んで、車さ乗され。 お前さ見せだいものもあるし、んめぇもの食わせさ連れでぐがら」
知明はそう言うと、自販機の脇に停めてあった白いセダンに乗り込んで助手席のドアを開けてくれた。
私はどこか気恥ずかしさを覚えながら、慣れない動きでシートに身体を添わせ、サイドミラーに映る素直になれない自分に向かってため息をつく。
吸い込んだ空気には、私の知る知明の匂いは混じっていなかった。
知明は私がシートベルトを締めたのを確認すると、ゆっくりと車を走らせて細い坂を登りはじめた。
車通りの多い国道へ出た車は、左へ折れるとさらに上へと登ってゆく。
助手席の車窓からは、陽光に照らされてきらきらと美しく揺れる三陸の海が広がっているのがよく見えた。
大学時代、あずき色の電車に揺られながらふたりで見た神戸の海とは違う、手つかずの自然に囲まれた海だった。
思わず私の口から漏れた、きれい……という言葉に知明が満足そうな笑顔を浮かべながらアクセルを踏み込んだところで、車は、陸前高田市、と書かれた標識をくぐった。
空も海も、10年前の惨状を微塵も思わせぬほどに、どこまでも青かった。
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