メランコリックな彼女と桜の話

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メランコリックな彼女と桜の話

 中学生活で二回目の春は、別に呼んでも求めてもいないのに、さも当然のようにぼくの前に現れた。暖かな陽気、満開の桜、にぎやかな小鳥たち。それは紛れもない春だった。  一つ誤解を解いておきたい。呼んでも求めてもいないというのは、少々大げさな表現であり、全身全霊を賭してまで季節の変化を切望しているわけでは無いということを、ぼくは言いたいのだ。むしろ、春休みの課題を提出しなければいけない関係で、どちらかと言えば春にならないで欲しいという思いの方が強い。願わくば春休みが三カ月くらい続いて欲しいところだ。  ただ、そんなぼくの思いとは裏腹に、やはり季節は移り替わってしまう。  冬の次には春が来て、春の次には夏が来て。そうして季節が巡って年が替わる。ぼくらは時間と共に季節が替わりゆくという『結果』のみを肌で感じることが出来る。  さてさて。中学二年生のぼくには、その季節が替わるという事象の『原因』を理解できるほどの知識を持っていない。  そう、物事には自然な原因と結果があるのだ。そんな法則もあった気がする。  だから、原因が分からず結果のみを知るだなんて、言いようのない歯がゆさを覚えてしまう。  ――まぁ、どちらにせよ春は『青春』の春。春がはるばるやって来たのだから、晴れ晴れしい気持ちで迎え入れてやろうではないか。  などと、一人で暴論を展開していたのが、ついさっきの帰りのホームルームの時間。  いつものように繰り広げられる冗長な担任の話を、ぼくの脳は完全に接続拒否していた。どうやらぼくの脳内セキュリティは最新型らしく、必要が無いと思った話は言語化することも無く、ただの空気の振動として処理してくれている。  幸か不幸か、独りで物思いにふけり、外部からの情報を自動で処理していた脳には、大変な疲労が蓄積されていたらしい。いつの間に、ぼくの脳は動作を一時停止してしまった。  ……誤解が無いように言うならば、居眠りである。  おかげでその有り様を名指しで注意されてしまった。クラス中の笑いを誘うというオチがつき、おまけに居残りまでさせられて、居眠りとの直接の関係は甚だ疑わしい勉強についてまで長々と指導される始末。  完全に遅刻だった。  と言う訳でぼくはとにかく急いでいる。  部活に少しでも遅刻すると、あの人にキツイお小言を言われてしまう。  ――あの人。  そう、あの人こそ、ぼく汐崎湊人(しおざきみなと)が気になっている女子だった。  後ろに流した長い黒髪と色白で透き通るような肌のコントラストが印象的。キリっとした大きな目と長いまつげが見た者を惹きつける。そんな人だ。  正直に言えば、ぼくは本当に運がいいし、恵まれているし、幸せ者なのだ。  なぜなら、その人と二人きりの部活に入っているから。まるで漫画のような話だ。  二人だけの部活になったという結果には、もちろん原因があるのだけど、詳しくはまた今度にしよう。今は時間が無いし、悲しい事にその原因をぼくはあまり覚えていないのだ。  走ってはいけない廊下を全速力で駆け抜け、滑りやすいリノリウムの階段を二段飛ばしで駆けあがる。白髪の理科教師にぶつかりそうになりながらも、何とか部室の前に辿り着く。  息も絶え絶え。ぼくはクシャクシャになった髪を整えながら、扉の上についた表札を見上げた。  第二家庭科室。  この学校に入学してからちょうど一年くらいだけど、授業で使われている所は一度も見たことが無い。さらに言えば、黒板下に置いてあるチョークはいつまでも新品のままで、減る気配が無いし、切れかけた蛍光灯はいつまでも交換されない。  つまり、第二家庭科室の唯一の使用者はぼくらという訳だ。  耳を澄ましても、部屋の中からは物音ひとつしない。でも、多分あの人は来ているはずだ。ぼくは大きく息を吸って、吐いた。そして静かに扉を引いた。 「また遅刻なの?一向に成長が見られないのは非常に残念だよ」  窓際のパイプ椅子に腰かけたその人は、髪をいじりながらそう言った。わずかに開いた窓から春風がそよそよと吹き込んで、艶やかな毛先を揺らしている。眉にかかる長さで揃えられた前髪の下から、やや明るい色の瞳を覗かせている。美少女などという、今どき普遍的な表現を使うこと自体、おこがましいと思ってしまうほど、麗しい佇まいだ。  小宮山梓(こみやまあずさ)、それが彼女の名前だった。  いつもみたいな嫌味を言われなかったので、ぼくはホッと胸を撫でおろした。そして小宮山さんと同じテーブルの斜向かいの席に腰を下ろした。ついでに肩に掛けていた教科書でパンパンの鞄も床に下ろした。 「いやぁ、危ない所だったよ、担任が春休みの課題を出せ出せってうるさくてさ」 「流石に長期休みの課題は出そうよ。一年生の時の復習にもなるんだから」 「確かに復習にはなったね。数字の書き取りと漢字の書き取り、ついでにアルファベットの書き取り。どんな文字もいまなら書き順はばっちりだよ」  ぼくが得意げに話すと、小宮山さんは呆れたようにため息をついた。 「つまり、ほとんどの答えを丸写ししたってわけでしょ」 「おお、名推理。さすが小宮山さんだ」 「お褒めに預かれて光栄ですこと。ただ、私に残されていた汐崎くんへのわずかな望みが、たった今失われたという事だけは伝えておくよ」  ぼくに対する評価をまた一段と下げてしまったようだけど、この程度はいつもの事なので目を瞑ることにする。『失望した』と明確に口にされなかっただけマシと言うモノなのだ。  小宮山さんはたしなめるように続けた。 「分かっているだろうけど、私達も来年は受験生なんだよ?勉強はちゃんとやった方が良いと思う」 「べ、別にテストの点は悪くないし、卒業まではまだ二年もあるよ」 「一年生三学期の期末テストの結果を忘れたの?」 「え?ぼく的にはかなり自信があるんだけど」 「数学平均点以下」 「ぐっ……」 「理科赤点、そして補習」 「ぐぅぬぬ……」  小宮山さんの淡々とした口調から放たれる、まごうことない事実。  命からがら、かろうじて、ぼくはぐうの音を発っすることで抵抗した。 「そうやって勉強を甘く見ていると、いつか痛い目を見るんだよ。知らないからね私」  やや棘のある語調。彼女のわざとらしいジト目がぼくに向けられる。  人を小バカにするようでいて、なんとなく煽情的なその目つき。  ぼくはまるで何かの魔法をかけられたみたく固まって、目線を外すことが出来なかった。  世界に二人しかいないような感覚に陥ってしまう。実際に部室にはぼくら二人しかいないから、あながち間違いでは無いのだけど。 「ああそうだ。ねえ汐崎くん、あれを見てよ」  ぼくが小宮山さんに見惚れている間、小宮山さんは小宮山さんで別の何かにご執心だったらしい。慌てて視線をずらして、小宮山さんが指さす先に注目すると……。  小宮山さんのすぐ後ろの窓の奥、そこには満開の桜の花があった。  いち学校の敷地の隅に置いておくには非常に惜しい。それほど見事だった。第二家庭科室は二階にあるから、ちょうど目線の高さくらいに花が見えた。 「桜がどうしたの?」  ぼくが何気なく問いかけると、小宮山さんはあっさりと答えた。 「私思うの、桜の花が一年中咲いていたら、私達の生活がどれだけ変わるんだろうって」  ……なるほど、今日の話題はちょっぴり難しそうである。  ぼくら二人のこの集まり、部活と名乗っているものの、唯一の活動内容は今のところ延期中。したがってその穴埋めというか、それこそ唯一の活動に成り代わっているのは雑談だった。学校で起きた事から世界の情勢、はたまたオカルトや哲学的なことまで、話題はなんでも良かった。  正直、そんな部活が存在していて良いのか未だに疑問が残る。まぁ見逃されているならば、ありがたくお目こぼしに預かろうではないか、と半ば納得している現状である。  ぼくはちょっぴり格好つけて言った。 「じゃあ、桜の花が一年中花をつけるヘンテコ植物ってことは前提条件でいい?」  小宮山さんはコクリと小さく頷く。その目元には笑みが浮かんでいた。  気を取り直して、桜の花が一年中か、と想像してみる。  蝉の声と桜。紅葉に交じる桃色、雪と花……案外悪くはないかもしれない。  ただ、どうしても季節感がおかしいことは否めない。スイカとカボチャを一緒に食べるみたいな……いや、そもそも食べ合わせが悪そうだし、南と西は対極ですらない。  ともあれ、春の桜がぼく達の精神に与える影響はとても大きいのだろう。  春の季語であることは言わずもがな、ぼく自身なぜだかわからないけれど、桜の花を見れば「きれいだなぁ」とか「風流だなぁ」みたいな感想を持つ。おそらく、精神の根底の方にイメージが刷り込まれているのだろう。いつの間に……。  そ れに春になれば、大人たちは「花見」と称して桜の下で酒盛りをするし、スーパーやデパートでも桜に関連した商品を売り出す。  むむむ。もしかしたら、ぼくら人間は桜を利用しているつもりで、却って桜の繁栄に利用されているのかもしれない。綺麗な花には棘があるとはまさにこのことか。桜はバラ科だし、あながち間違ってはいないだろう。  ぼくはコホンと咳払いをした。 「確かなことは、桜が春の季語じゃなくなるってことだ。年中見られるモノは四季を感じさせない存在だからね」説得力が増すような気がして、身振り手振りをつけてみる。 「例えば、コンビニのおでんが一年中売られているみたいなことだよ」 「……まぁ、それはちょっと……良いのか悪いのかを計りかねるというか」  うーむ、喩えはいまいちピンとこなかったらしい。  小宮山さんは、わずかに戸惑ったような顔をして言う。 「その気になれば、おでんなんていつでも食べることが出来るよ?」 「それもそうか。なら、夏野菜カレーを年中食べられるとか?」 「旬の野菜は、その旬に食べるから美味しいのであって……」 「じゃあ、おせちを毎日食べられるとかは?」 「飽きそうだし、ありがたみも特別感もないね」 「なら、新米を年中頂けるってのは?」 「収穫から半年くらい経ったら、それはもう新米とは呼べないと思う」 「ですよねー」 「と言うか、食べ物で喩えるのは悪手だと思うの」小宮山さんは呆れたように目を細めて言った。「そもそも汐崎くんに喩えのセンスが無いのかな」 「ああもう!食べ物のことはいいんだよ!」 「最初に食べ物で喩えたのは汐崎くんなのだけど……」  ――むむむ、それは失礼しましたことで。  百歩譲ってぼくに非があるとしても、文句を言われるばかりではたまらない。  そう、小宮山さんの意見も聞きたいところである。人の考えに物言いをつけているのだ。それ相応のご意見を聞かせてくれるに違いない。 「じゃあ小宮山さんはどう思うんだい?桜が毎日咲いていたらぼくらの生活にどんな変化が起きていると思う?」  ぼくが問いかけると、小宮山さんは「そうだねぇ……」と頬杖をついて、考え事をするように斜め上の方を見やってしまった。この様子だと、大した考えが無かったのか。いや、小宮山さんのことだ。何か概念的で言葉にするのが難しい事を思いついているのかもしれない。ぼくは少し身構える。  ややあって、小宮山さんは不器用な笑みを浮かべながら口を開いた。 「さ……」 「さ?」 「さ、桜もちの特別感がなくなったり、お花見でお弁当を囲むことがなくなったりするのかなぁ……みたいな?」 「結局、小宮山さんも食べ物のことなのかよ!」 「う、うるさいなぁ!まだ続きがあるんだから!」  ぼくのツッコミを力技で掻き消すように小宮山さんは言った。  そして、恥ずかしそうに頬を上気させた彼女は、ぼくの方に人差し指を向ける。 「つまりね、桜に関連した行事や事物は、今ほどの影響力を持たなくなると思うの。そもそも桜自体が、見向きもされない存在になっているかもしれないねってこと」 「まぁ道端の雑草にわざわざ気を留める人は居ないからね。いつでも見られるモノに気を配る人が少ないのは確かだ。でも桜自体の魅力は失われないと思うな、ぼくは」 「と言うと?」小宮山さんはわずかに首を傾げる。 「たとえ桜に季節感が無くなったとしても、桜の花の美しさも優雅さも、決して失われないはずだよ。花屋で一年中バラが手に入る世の中で、その需要がなくならないみたいに」 「バラと桜では求められているモノのベクトルがそもそも違う気がするけれど……」 「まぁまぁ細かいことはね。なんにせよ桜の魅力は季節に縛られるモノじゃないと思うな」 「でも桜の魅力と、私たちの生活の変化は別だよ」 「そうだねぇ……桜の季節感が失われることがぼくらの生活に変化をもたらすとするならば、別のモノに春らしさを求めるんじゃないかな?桜でないモノが春の象徴になっているみたいな」 「なるほど。タケノコとかフキノトウとかアスパラガスとかだね」 「やっぱり食べ物ことばっかりじゃないか!」  これに対して、身近な事だからいいじゃないの!と小宮山さんは怒ったように頬を膨らませた。他には何かないの?と追撃したところ、菜の花、春キャベツ、新タマネギ、と返って来。どうやら小宮山さんは本格的に食べ物のことしか頭に無いらしい。  ――気を取り直して。  小宮山さんはやや難しそうな顔をして言った。 「ここまでの意見をまとめると、桜自体の魅力は変わらないだろうけど、私たちは桜では無いモノに季節性を求めるようになる、という事かな?」 「大体そんな感じ……かな?難しくてぼく自身もよく分かって無いや」 「じゃあこの結果から考えられる私達の生活への変化は?」 「おそらく、春になったら皆一様に竹林ヘ赴いて、タケノコが一日で猛成長する様子を眺めながら、お酒をたしなんでどんちゃん騒ぎをするんだろうね」 「対象が変わるだけでだいぶ世紀末ね……」  苦笑いを浮かべる小宮山さんを後目に、ぼくはかねてから思っていたことを言うことにした。 「でもやっぱり桜は春だけ咲いていて欲しいな。他をはるかにしのぐ魅力があったとしても、毎日桜を見ていたら流石に飽きてしまうかもしれないなぁ、なんて。一年の限られた期間にしか見られない儚さも、桜の良さの一つだと思うし」  ぼくがそう言うと、小宮山さんはわずかに目を大きくしてから、柔和に微笑んだ。そうして何かに納得したように、少しだけ開いていた窓を閉めてしまった。  窓外の桜を眺めながら、彼女は独り言つようにこぼす。 「桜は春にだけ見られるからこそ綺麗なんだよね」  やはりと言うか何と言うか、ぼくはその横顔に見惚れるしかなかった。  そのメランコリックな横顔に。  ――小宮山さんなら年中見ていても絶対に飽きないだろうな。  飽きる飽きないで人を語ることが、どれだけ失礼にあたるかということは重々承知の上で、ぼくは不意にそんなことを思ってしまった。 「案外さ。一年中見ることが出来ても飽きないモノはあるのかもしれないね」 「え、さっきと言っていることが違うじゃん」  小宮山さんはフフフと笑った。黒髪が揺れ、細い肩が弾む。  その笑顔は、ぼくのとある決心をより強固にすることとなった。  ――勉強や遊びなんかよりも、小宮山さんとの部活の時間を大切にしたい。こんな魅力的な人と青春を過ごすことが出来るのは、きっと物凄く幸運で、恵まれたことだから。  現状に至った原因は思い出せないし、結果もまだ訪れてはいないだろう。  この宙ぶらりんで、未だ道半ばのぼくらはどうなるのだろう。  どんなに頑張って考えてもまだ分からない。ぼくはまだ中学生なのだ。  でも、きっと答えが出る日は必ずやって来る。  それまでの経過を十二分に楽しもう。  そして、より良い結果が出るような努力も惜しまないだろう。  ぼくはそう思うのだ。
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