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「…………何でだろう、思い出せない」
少年は三角座りで、自分の膝を抱え込む。
今まで家で震えていた時のように。
「順を追ってゆっくりでいい。朝起きてから今まで、思い出してみな」
「朝起きて……そうだ、学校に行く前に父さんが帰ってきたんだ」
「──んん? 学校に行く前ってことは、父親が朝に帰ってきたのか?」
膝をぎゅっと抱え込む。堪えるように、苦しみを飲み込むように。
腕にぐっと力が入る。忘れていた痛みを思い出すように、祈るように。
「……そう。離婚してからは、何度もそうだった。朝に帰ってきた時は必ずお酒臭いから、多分寝ないで飲み歩いてるんだと思う。
朝に帰ってきては──僕を殴るんだ」
思い出すほどに、体が震えていく。身体が熱くなっていく。口の中が乾き、水分は涙になって頬を伝っていく。
「『お前のせいで人生が変わったんだ』って。
『お前なんか、生まれなきゃよかったんだ』って。何度も、何度も言われてきた」
閉じた瞳に、同じ光景が流れる。低く呪う声。違う日の同じ記憶。何度も訪れる、痛みと恐怖。
それは、少年が一人で抱えるには、あまりにも重すぎた。
男は身体を起こし、少年の肩の震えを少しだけでも請け負った。
辛いことは明確だ。だから、男はここにいるのだ。どんなに辛くとも、少年はその先に行かなければならない。
「……言われて、殴られて。お前さんはどうしたんだ?」
「黙って殴られてたよ。ずっと、何度も。弟を先に送り出して、僕だけ家に残って、殴られてた。
でも痣だらけで学校に行くと先生に心配されるから、『殴るなら服の下にして』って言った事もあった」
少年の声に怒りはなかった。痛みへの恐怖はあったが、不安の原因はそれではない。
「──今日の朝も、そうしたのか?」
男の言葉で、少年は今朝を思い出す。
記憶にかかった靄を、少しずつ払っていく。最初に浮かんだのは、大切な弟の、星のような笑顔。
「うぅん、今朝は違ったんだ。
何でかわからないけど、父さんは僕を押しのけて、弟を殴ろうとした。追いかけて止めようとしたけど、台所に突き飛ばされた。
だから、僕は……──」
そこでやっと思い出せた。
靄のかかっていた記憶。ここに来るまでの記憶。
今日まで覚えることのなかった、怒りの色。
「……そうだ、僕は……僕は、父さんを……!!」
赤い、赤い怒り。
自分一人ならば知らなかった色。
大切な弟を守るために、初めてやった事。
「……辛かったら泣きゃぁいい、気持ち悪かったら吐きゃぁいい。男だろうがお兄ちゃんだろうが、気が済むまでそうしていいんだ」
背中を優しく撫でる男の温もりが、凍っていた少年の心を溶かした。
波の音に消えないほど大きな鳴き声が、黒い海に響いた。
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