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うまく事態は飲み込めなかったが、ひとまずは男の言葉に従った。
手のひらの汚れを見つめて、続きを思い出す。
「……僕が、父さんを刺した。
父さんは悲鳴をあげて、暴れたんだ。やっと弟じゃなくて、僕の方を見た。
それから──」
手のひらの赤色が、錆びたように黒くなる。それを上書きするかのように、また鮮やかな赤色が塗られる。
──疑わないほど、自然な事だった。
今までだって、そうだったのだから。
「──それから父さんは、僕の手から、包丁を……奪った……」
息がうまく吸えない。うまく吐き出せない。濁った思いが、肺に溜まっていく。
男は最初から知っていた。
ここに、どんな人間が訪れるのかを。
少年が──父親が、どんな人間なのかを。
「……そういうこったよ。お前さんがここにいるのは、そういう理由さ」
ぐるぐる、ぐるぐると腹の中を異物が駆け回る感覚。臓物を全て捻じ曲げるような、考えられないほどの不快。
もう黒い海など、見たくもない。
自分の手の汚れが気にならないほどの醜悪。
「あ、あぁ……う、うぅ……っ!!」
「吐いちまいな。後片付けなんて考えなくていい、親の目も周りの目も気にしなくていい。
わずかでも信じていたかったものに拒絶されるのは……辛いもんだ。それが肉親なら、尚更な」
少年は空っぽの胃袋をひっくり返した。水分という水分が、行き場を失ってしまう。
男はその背中を優しくさすることしか出来なかったのが、ひどく悔しかった。
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