母親と血の繋がっていない父親との会話

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 志郎さんの声がリビングに届くと、ズルズルとスリッパを引きずるような足音が聞こえた。珍しく、出迎えに母が出てきた。足が悪いわけではないのに家でも外でも足を摩るように歩く癖があるのですぐに分かる。 「お帰りなさい。あら、二人一緒だったのね」 「うん、駅で偶々会ってね」 「そう。先にお風呂にする?」 「そうだね。そうさせてもらおうかな」  二人が喋っている間に二階の自室に入ってしまおうと、そそくさ靴を脱ぎ階段へ向かおうとしたが、呼び止められた。 「孝文」  一瞬立ち止まったが、すぐに歩き出した。僕は仁であって孝文ではない。  しかし逃げ切れなかった。腕を掴まれ、強引に足止めされた。 「孝文」 「何?」 「ちょっと久子叔母さんのところに言ってほしい用事があるんだけど、明後日は何かある?」 「明後日は命名士との第三者面談があるから、それが終わってからなら」 「それ断れないの?」 「は? 面談を?」 「そう。それはやらなきゃいけないの?」 「当たり前でしょ。保護者と先生と公認命名士の三人から提案された名前から新しいのを選ぶんだから、断るなんてできないよ」 「先生や命名士の人が考えた名前を選ぶつもりなの?」 「それはまだ分からないけど。どっちもまだ言われてないんだから決めようがないでしょ」 「だから、もう孝文にしなさいって言ってるのよ」  一瞬、デジャビュかと本気で思った。そのくらい以前したのと似通った会話だった。  ひょっとしたらこちらの神経を逆なでするためにわざと同じ事を繰り返しているのだろうか。いや、むしろそうであってほしい。わざとでなければ記憶障害かもしくは認知症としか考えられない。 「嫌だよ」  前と区別のつかない事を聞いてくるなら、こちらも前と同じよう事を返すしかなかった。 「何が嫌なの? お母さんとお父さんで考えたのよ?」 「その名前が嫌なんじゃなくて、選ぶ権利があるんだから選ばせてくれっていっているんだ。そういう学校だから通わせたんだろ? 心配しなくたって来月の頭にでも新しい名前を決めているよ」 「一年間の学校生活を見ていただけの先生と、明後日初めて会うような人にキチンとした名前が付けられる訳が無いでしょう」 「そんなの分からないだろう。三つの中で一番マシな奴を選ぶだけだから」 「何その言い方は? マシな奴ってどういう事? あなたの一生に関わる事なのよ」 「名前なんてどうだっていいだろ。余程酷くなきゃ何だっていいよ」 「仁くん」  言い過ぎだよ――と言いたかったのだろうが、母がそれを遮った。 「志郎さん、その名前でこの子を呼ばないで。この子は孝文にしようって二人で決めたでしょ」 「だから勝手に決めないでって。中学の時は、母さんの言う通りにして僕が折れてあの高校を選んだ。これ以上勝手に全部決められるのはうんざりだ。そもそも、なんでそこまでして僕の名前を変えたいのさ。仁なんて名前、別にオカシくも何ともないだろ。まあ、理由の大方の見当は付いてるけどさ」 「見当って何よ?」 「こっちになんの相談もしないで再婚したのも、いきなり引っ越ししたのも、そんな頑なに僕の名前を変えたいのも、全部父さんを忘れるためだろ」  そう言い放った途端、頬を一発叩かれた。不意の事だったので、よろけて壁にもたれた。母は手を振りかぶり、追い打ちをかけようとしたが、その腕を志郎さんに掴まれて固まった。  何故か叩かれた頬の痛みより、廊下の寒さの方がより一層に肌で感じられた。 「し、志郎さん」 「二人とも取りあえず、落ち着こうよ。うるさくするから結実がぐずってる」  言われる通りドアの向こうからは結実の鳴き声が聞こえてきていた。母がそっちに気を取られているうちに僕はまた歩き出した。 「とにかく、明後日は面談があるから叔母さんのところにはいけないし、行くとしたら遅くなるよ。僕はもう寝るから、おやすみ」  僕は今度こそ勢いに任せて二階にある自室へ逃げるように向かった。 「うん。おやすみ、仁くん」  乱暴に荷物を置き、ストーブに火を付けてベットに仰向けで倒れ込んだ。体が鉛になったように重々しく感じられた。サンドイッチを食べてのにも拘らず帰り道では小腹が空いていたが、今は水さえも口にしたくはなかった。  しばらくして、一つ大きく深呼吸をした。気が付けば一時間近く時間がたっている。  僕は部活の後輩に明日の部活動についての連絡をしなければならなかったことを思い出し、携帯を取り出した。明日は授業が終わり次第、部室に集合と事務的で素っ気無い文章を送った。そしてすぐさま、「了解しました」と素っ気無い文章が帰って来たのを見ると、瞼が開かなくなってしまった。  夢を見始める一歩手前の間に部屋の電気を消していない事、風呂に入っていない事、歯を磨いてない事、制服から着替えていない事、ストーブが付けっぱなしの事などの乱雑な思考が縦横無尽に頭の中を駆けていった。  そんな気掛かりばかりで寝付いたせいか、真夜中に目が覚めた。ストーブを付けていたお蔭で凍えはしなかったが、それでも体には冷えが残っていた。何とか寝惚け眼を開き、部屋着に着替えると電気を消し、本格的に寝ることにした。歯を磨かなかったので少し口の中が気持ち悪かったが、それでもすぐに眠れた。
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