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「遅いですね」
長田くんのいう通り、古川先輩は中々部室に戻っては来なかった。僕が部室に到着してから一時間が経とうとしている。
僕たちは先輩を待ちながら、結局は冬休み前に中断した将棋の続きを指していた。その最中、古川先輩のことを話した。思い出話から始まり、具体的な実力や得意な戦法、僕たちと同じく卒業と同時に名前が変わった人だということも教えた。
窓の外に見える景色は、既に薄暮を通り越して真っ暗になっていた。まさか帰ってしまったのだろうかと考え始めた時、それを払拭するように摩りガラスの向こう側に人影が見えた。人影は迷うことなく引き戸の前に立ち止まり、そしてカラカラとドアを開けた。
「お邪魔します。あ、乙川。やっと来たわね」
ようやく古川先輩が戻ってきた。
久しぶりに聞くその声は最後にあった日から変わってはいなかったが、見た目は記憶のそれと大分違っていた。キャンパスライフを謳歌する大学生の格好なのはその通りなのだが、髪は短くなり少し大人びて見えた。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
座敷から降りようとした僕を先輩はそのままで良いよ、と言って止めた。
「だいぶ遅かったですね」
「先生と大分盛り上がっちゃってね。はいこれ、差し入れ」
古川先輩は、購買部の脇の自販機で買ったのであろうホットコーヒーを僕たちに手渡してきた。
「有難うございます。頂きます」
「えと、長田くんだったよね? 長田くんも遠慮しないでいいよ」
「うす。頂きます」
三人で缶コーヒーを飲み、しばらくは近況報告に似た閑談が続いた。
うまく会話が途切れたところで、ちょんちょんと肩を叩かれた。見ると長田くんが、さっきの話よろしくお願いします、と言わんばかりに手を合わせていた。
「あー、古川先輩」
「なに?」
「もしよかったら、一局どうですか? 長田くんと」
「いいの? 今対局してたでしょ?」
「大丈夫っす。一局お願いします」
「二人が良いんなら。私も久々にこの部室で指したくてさー」
先輩の目の色が変わったのが見て取れた。
僕たちとは違い、古川先輩の三度の飯より将棋を選ぶ性格なのは変わっていないようだった。そして座敷に上がるときに雑に靴を脱ぎ捨てる癖も変わっていなかった。
先輩の代わりに僕が下に降り、椅子に腰かけて岡目を決め込んだ。
「乙川。長田くんは何枚か落とした方がいいの?」
「いえ、平手でお願いします」
当の本人が質問に答えた。長田くんは勝率や公的な成績で言えば僕よりも上なので止めはしなかった。
その返事に古川先輩は満足した様子だ。
「お、いいねぇ。じゃ振るよ」
「お願いします」
振り駒の結果、長田くんが先手となり二人は対局を始めた。
先ほど古川先輩は強いと言っていたせいか、僕と対局する時のように胡坐ではなく正座に居直って指している。
盤に駒を置く小気味よい音とストーブの唸りだけが響いている。八手目が打たれたところで、長田くんはおもむろに聞いた。
「あの、古川先輩は対局中に喋っても平気な方ですか?」
「いいよ。おしゃべりは大好きだから」
「俺、ここの名前が変わった卒業生って人に初めて会ったんですけど、実際どうなんですか。名前が変わるって」
「苦労の連続で、名前を変えた事を後悔してるわ――」
「え?」
と、声を出したのは長田くんではなくて僕の方だった。とは言っても長田くんも珍しく驚いたような顔をしている。
先輩はそんな僕たちを他所目にあっけらかんと続けた。
「っていうのは冗談だけどね。実際は全然苦労はしていないよ。私は大学へ進学したんだけど、大学でできた友達は皆初対面だったし、今のサークルじゃ皆ニックネームとかで呼びあっているから下の名前を気にすることは滅多にないしね。前の名前で関わっていた人達も―――例えば親とか親戚もいい加減に慣れてくれたし。小中の友達には中々会う事もないし、高校の同級生は名前が変わったのは勿論知っているから困ることはないしね。それに、そもそもの話だけど、日常生活で下の名前で呼ばれる機会なんてそうそうないじゃない? ざっと思い返しても見ても、名前を変えて不便だと思ったことはないなぁ。初めの頃は色々と書類を書いたり出しに行くのが面倒だったけど」
つらつらと答えてくれる中で貴重な事が聞けた。実際、今後の生活を考えると杞憂というか、色々と考える事は多いのが本音だった。名前を変えることに一切の不安がない奴は稀だろう。
しかし先輩の弁は、言われれば尤もな事ばかりで少し肩の荷が下りた様な気がする。多分、長田くんもそれは同じだった。
「へえ。てか、そもそも変えたくなるくらい変なお名前だったんですか?」
「ううん。京都の〈京〉に香車の〈香〉って書いて京香っていう名前だったんだけど、別に普通の名前だよ。名前を変えたいと思ったのに、劇的な理由がある訳じゃないのよね。期待させていたら悪いんだけど」
「いえ――因みに劇的じゃなくても理由を聞いてもいいですか?」
「ふふふ。ぐいぐい聞いてくるじゃない。将棋の方もそんなおっかなびっくりじゃなくて、ぐいぐい来てくれれば楽しいのに」
「それとこれとは話が別ですんで」
序盤は何をさて置き守りに徹するのはいつもの長田くんのいつもの筋だ。けれども普段より更に用心深い印象を受けた。
ただ、僕の関心は二人の将棋よりも話の方に傾いていた。
古川先輩は答える。
「とは言われても、今言った通り、具体的な訳はないのよね。何となく名前を変えてみたかったというだけなんだけれど。それで腑に落ちないなら名前が変わった時に思い付いた決心を教えてあげよっか」
「名前が変わった時の決心?」
「うん。乙川は知っているけど、私は〈明日〉に〈花〉って書いて明日花という名前になったのよ。『きょうか、あすか』と洒落が利いてて個人的にはすごく気に入っているんだけど、それは余談ね。私の名前が新しく変わった時、私はね、変わらないでいようと思ったんだ」
「どういう意味ですか?」
長田くんは手を止め、盤から先輩の方へ視線を動かした。
僕も何か含みのあるような気がして、言葉の本意は分からなかった。
「言葉のまま。明日花になったところで、京香という名前で過ごしてきた過去や記憶が無くなっちゃう訳じゃないし、何と呼ばれたところで私は私のままでいようと決心したんだ」
分かるようで分からない、けれども古川先輩の事を多少なり知っている人間に言わせれば実に彼女らしい考え方と言い方であると思った。
要するに名前に人生を左右されたくないという話なのだろう。
「それは、古川先輩が前の自分を嫌いでないから思ったんでしょうね」
か細い呟きが馬鹿に響いた気がした。
「うん? 何やら意味深だね?」
先輩も小首を傾げている。
長田くんは眉間に皺を寄せ一つ深い息を吐いた。将棋で押されているから出たため息ではなく、先輩の話を聞いて出たため息の様だった。
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