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「長田くん、どうかした?」
「いえ、何でもないです」
「ああそうそう、名前が変わるで思い出した。今日は乙川に報告があってわざわざ来たんだった」
「? 何ですか、報告って」
「私、今度結婚することになった」
「は?」
そう声を出したのは長田くんだ。僕は声すら出ないほど唖然としていた。絵に描いたような開いた口が塞がらない顔をしていた事だろう。
先輩はニヨニヨといた顔をしたあと、クツクツと楽しそうに笑った。
「予想通りの顔が見れて満足、満足」
「冗談ですよね?」
出てきたのはたった一言の言葉であるが、それを捻り出した脳裏には何十倍ものワードが交錯している。
「ううん、これは本当よ。名前が変わったばっかりだけど、今度は目出度く名字まで変わることになりましたー。まだ籍は入れていないんだけど、まあ年内中に私は古川明日香改め、八重樫明日香になっちゃいます」
「お、おめでとうございます?」
思わず語尾が上がり、疑問形のようになってしまった。
「ありがとう」
「でも先輩まだ学生で、未成年ですよね?」
「相手はもう社会人だよ。それに私も今年二十歳になるから特に問題はないよ。勿論、双方の親に挨拶も済ませてあるから、そっちも心配なし。ウチはあまりそういう事に口うるさく拘る親じゃなかったから。流石にあと二年は学生だから子供は考えていないけれどさ」
「色々急ですね」
「まあ、かなり早い結婚だとは思う」
「なんか格好いいですね、古川先輩」
僕も感じていた事を長田くんが代弁してくれた。やる事なす事が下手な男よりも男らしくて圧倒される。高校時代から少々破天荒な気はあったが、ここまで踏ん切りが良い人だとは思っていなかった。
「ふふふ、ありがとう。これでもう『古川京香』という名前の人間は、完全にいなくなっちゃう訳だけど、どうなるだろうね。私は変わらずに私のまま居られるのかどうか、とても楽しみなんだ――ああでも、そんな言い方だと好奇心ばかりが先走って愛が無いように聞こえちゃうな。誤解しないでね。当然、相手が好きだから結婚するんだからね」
「何かもう、何も言えないです」
誤解するしない以前にまだ先輩の話を頭で理解できても、心で理解できていない気がした。それだけ唐突過ぎる話だ。
そしてこちらの気などお構いなしに先輩は唐突に話題を変えたのだった。
「ところで、長田くんは何で名前を変えたいの?」
少し沈黙があった。三秒にも満たない間であったのだが、長田くんの雰囲気が変わったせいか、僕にはもっともっと長い時間に感じられた。
「…さっきの話と絡めるなら古川先輩とは逆です。俺は自分を変えたいから、その為に名前を変えたくて入学しました」
「詳しく聞いても大丈夫?」
先輩は声のトーンと顔を元に戻して聞き入った。
「俺、小学生の時、いじめられてたんすよ。中学も同じ小学校から入学した奴らが殆どなんで、始めのうちは同じだったかな。あ、でも漫画みたいなエグイいじめじゃなかったですよ? 今もそう変わんないすけど、陰キャそのものみたいな奴だったんで、友達もいなくて。けど――こっちは漫画みたいな話ですけど、中一の時に名人戦に出たら三位になっちゃって」
「凄いじゃん」
僕は知っている事実なので驚きはしなった。むしろ長田くんの過去の話の方にひどく衝撃を受けていた。
「まあ、それからちょっと自信を持てたんです」
「周りの目も変わったでしょ?」
「そうかも知れないです。いや、最初は自慢する友達もいなかったですけど。一応、学校が大々的に報告してくれましたんで、話かけられる事は増えましたねでもその後もイジメられていたのは自分の中で尾を引いていたんで、結構悩んだりしたんですよ。ウチの中学、将棋部がなかったから将棋の事で話せる友達もいないし、その後に他の大会は行けてもベスト⒗とかが精々で―――それでも凄いって励まされたりもしたんですが、やっぱり自分が好きになれなくて。しかも逆に下手に目立ったせいで一度だけ、結構酷い事言われたんす。その時は本当に死のうかと思ったこともあります」
先輩は黙っている。僕は言葉が出ないでいる。
色々と問題のある日々を過ごしてはいるが、死んでしまいたいと思ったことはまだない。
「ま、死んでないので今こうやって将棋を指してる訳ですが。で、それからも色々考えてみて名前を変えれば、ひょっとしたら少しでも変われるんじゃないかと思ったんす」
「なるほどね」
「けどやっぱり、名前が変わったくらいじゃ、劇的に人生が変わったりはしないっすよねー」
いつもの長田くんの調子に戻った。そして失礼します、と一礼して足を崩した。
「さっき言ったのは飽くまで私個人の話だから、実際どうなのかは分からないよ」
「古川先輩の話を聞いても、結局は自分次第って月並みな結論ですよ、変わるにしても変わらないにしても」
「それはそうだろうと思うね」
そこから長田くんは黙々と将棋に集中した。先輩もそれに合わせて口を利かずにいた。二人が喋らないのであれば、僕が声を出す道理がない。部室は久しく八十一マスの世界に収縮した。
しばらくして沈黙を破ったのは、長田くんの「負けました」という声だった。
先輩も辛勝だったようで、大きく息を吐いた。
「高校生の大会に出たりはしないの? 団体戦は無理だろうけど」
「入部したばかりの頃は出たいと思ってましたけど、この部室でダラダラ指すのが妙に楽しいんですよ」
「私も乙川も全く興味がなかったからね、そういうのは」
「延々とここで将棋指してましたね」
「懐かしい」
「そう言えば、乙川先輩の名前を変えたい理由って何なんですか?」
「え?」
不意打ちを喰らった。
確かに二人が名前を変えたい理由やらを話していればこちらに話題が飛び火する可能性はあったのに失念していた。途端に自分のこの高校に入学した理由が恥ずかしくなり、焦りが生まれた。そうでなくとも他人には秘密にしておきたかった。特に二人の話を聞いた後では尚更だった。
「そういえば私も聞いたことがなかったな。将棋と試験前に勉強以外の話題を持ち出した覚えがないよ」
「僕も大した理由はないですよ」
「二人とも言ったんすから、先輩も教えてくださいよ」
「て言われても、長田くんみたいに明確な理由はないし、古川先輩と同じだよ――何となく。だからと言って、自分のままでいるみたいな立派な理由もないんだけど」
必至に焦りを取り繕い答えると僕は無理矢理笑った。聞かれて困る質問をされたり、こういう場合の時は笑うって誤魔化すに限る。それが通用しなくなれば、不満足そうにあしらう。僕が経験則で知っている方法はこの二つしかない。
けれども奥の手は使わずに済んだ。二人とも苦笑いで納得してくれた。
「そうなの? 乙川のことだから尤もらしい理由があると思ってたんだけど――なら、この話は終わりにして一局どう?」
「お願いします」
有難く申し出を飲んだ。先輩と一局指したかったのも本当だし、このまま誤魔化し切りたいのも本音だった。
何故か張り切ってしまい、僕も同じく平手で指した。今度の対局は先の勝負とは対極で一切の会話がなく、大局もあまり盛り上がらず、あっという間に僕の負けという形で決着した。
「さて、二人はこの後急いでる?」
「いえ、僕は何もないです」
チラリと長田くんに目線を送った。
「俺もないっす」
二人の言質を取ると古川先輩は満足そうに言った。
「よーし、じゃあ私の結婚のお祝いに何か奢ってあげましょう」
「……お祝いなら僕らが奢るのでは?」
「後輩に奢るのが先輩でしょ」
「はあ」
「さあ二人とも、さっさと下校の準備をしろー」
そそくさと先輩に急かされるままに部室を後にした。
外は既に日が完全に落ちていた。部室棟側は電灯が少ないので、暗く危ない。何よりも気味が悪い。草木の揺れるザワザワした音が聞こえていたが、不思議と風は感じなかった。
時間も時間だったので夕飯を食べに行くということはすぐに決まったが、どの店にするかは中々決まらなかった。
三人で歩きながら相談し、校門を出たところで「らりほう亭」という近所の弁当屋に行くことになった。濃い味付け、量の多いおかず、そして何よりも安いとう理由で近隣の学校に通う学生たちの御用達の店だ。有名人に教えられ、何回か付き合って買いに来たことがある。僕は細身であるが食は太い方であり、長田くんは、それこそ痩せの大食いという言葉が似合うほどよく食べるので問題ない。
きありく亭は店内にも食事スペースがある。暖かい弁当でもわざわざ冬空の下で食べる選択をする訳も無く、他に客もいなかったので三人で腰かけた。待っている間、古川先輩は実は初めてこの店を使うのだと話してきた。高校在学中は何かとタイミングが合わなかったらしい。なので、実際に出てきた弁当を目の当たりにすると、あまりの量の多さにケタケタと笑ったのだった。
僕は電車で通学しており、先輩はバス、長田くんは徒歩、と行き先も交通手段もバラバラだったので、らりほう亭を出ると思い思いに帰路についた。
途中までは久しぶりに古川先輩に会え、みんなで食事をした楽しさの余韻に浸っていたが、次第に気持ちが鬱屈していった。
先輩は生活がこれ以上ない程充実していて羨ましかった。
後輩は思っている以上に色々な経験を鑑みて、この高校を選んでいた。
嫌でも今の自分の状況と比べてしまい、情けなく恥ずかしい気持ちになっていった。そしてそれが呼び水となってしまい、どんどん同世代の友人たちと自分とを見比べてしまった。
有名人は剣道で全国大会に出場できるくらいの実力者だし、若山さんは部活動に生徒会を掛け持ちしつつ、学年でもトップに入るくらい頭が良い。
それに比べて……。
人付き合いを避けるのは、そうやって自分や他人に比較されて、情けなく、みすぼらしくなりたくないからなのかもしれない。知らず知らずにそう思っているとすれば、友人が少ないのも頷ける。
周りがとても眩しく見える。
僕には人に誇れるような実績も、個性も、そして何より目標がない。だからこの目には普段が変わり映えしないように映るのだろう。
駅で降りると、例によって雪が降り始めていた。
この嫌な気持ちの上にも降り積もって、何もかも見えなくしてくれないかな、などと柄にもない事を考えながら、重い足を動かしていた。
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