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「の、呪いですか?」
垣さんの顔にも雰囲気にも似尽かわしくない物騒な言葉だった。あまりのギャップについ言い淀んでしまった。
垣さんは変わらぬ微笑みで続けた。
「ええそう。呪いってどういうものかは知っている?」
「いえ。呪文唱えたり、人形に釘打ったりするやつですか?」
突然にそんな事を言われても、普通の男子高校生が知るはずもない。僕は首を振ってから答えた。我ながら子供染みた情けない回答だったと思う。
「半分は正解。そういう禍々しい面もあるのは事実ね」
「そういう面? っていうことは違うものがあるんですか?」
「呪いというとどうしても良くないイメージを持つから、せめてお咒いと言った方が良かったかしら」
垣さんは愛くるしく小首を傾げた。すると前髪が落ちてきたので、それをかき上げた。
「…いえ、どっちにしろ分からないです」
「少し名前の話とは逸れるかもしれないんだけど、大丈夫?」
「むしろ脱線するでしょうけど、教えてもらっていいですか」
垣さんのいう通り、案外こういう話が好きなのだろう。消化不良を起こしそうなのでとことん教えてもらうことにした。
「呪いっていうのはね、例えば人を不幸にしたり傷つけたりするという意味もあるんだけれど、逆に幸せにしたり癒したりする性質も持っているの。ただ、その幸せにできる性質だけを取り出すことはできないから、区別も難しい。そして人間、善悪が混同されると悪いモノに見えることが多くって結局は忌避されてしまうのよ」
「呪いで人を幸せにするんですか?」
「想像はし難いかもしれないけれど、呪いっていうのは言ってしまえば、品物があってそれを品評することと、そこから生まれた評価そのものの事を言うのよ。そうね―――扇風機を想像してみて。名前の通り、あれ自体は羽を回して風を起こす只それだけの機械であって、それ以外の用途はないでしょう? 夏に使えば涼しくなるけれど、冬に使ったらどうなると思う?」
「寒くなると思います」
「じゃあ、初めて扇風機を見る人に良い印象を持ってもらうには、夏と冬のどちらに使うべきかしら?」
「そりゃあ、夏ですよ。冬に使ったら余計に寒くなるじゃないですか」
「そう。夏に使うというのがつまりは呪いの善い側面。熱さを和らげるっていうのが幸せって事ね。反対に冬に使うのが大多数の人がイメージする呪いの悪い側面。今、仁君が言ったみたいに寒さを助長することにしかならないでしょうから。ここで注目してほしいのは、扇風機自体はただ風を送っているだけだという事。ただスイッチを入れて風を起こしているだけなのに使う季節を変えるだけで、プラスマイナスのそれぞれ逆の印象を植え付けられるでしょ? そしてそれには人間の作為がある。これが呪いの第一段階ね」
「第二段階もあるんですか?」
「そう。ここからが恐ろしいのだけれど、人間っていうのはね、その初めて扇風機を使って得た感覚や感性がそのまま頭の中にインプットされて、初めて持った印象を変えられなくなってしまうの」
どんどんと深みが増していく話だったので、僕は一旦区切った。
「えと、待ってください。整理します――――呪いっていうのは、品物を品評して評価を貰うその結果の事ですよね。今例えた扇風機の場合は使う季節を選んで、審査員に持ってもらえる印象を操作する、つまり良し悪しは別に実際に扇風機を使ってみるのが、所謂ところの『呪いをかける』ってことですよね? そしてそれが第一段階」
「理解が早くて助かるわ」
「それですみません。第二段階というのはどういうことですか?」
「今言った通り、多くの呪いは初めに使った季節とその時の印象が染み付いて取れなくなってしまうの。冬に扇風機で寒さを味わった人は夏になったとしても扇風機を見たくも無くなってしまい、夏に涼しさを理解した人は、例え必要になったとしても冬に扇風機を使う事はない。それどころか場合によっては冬に扇風機を使う人を非難し出すかもしれない。逆もまた然りね。ただ勿論、万人がそうだという訳ではないわよ? 例外を持ち出すと混乱するだろうから、ここでは控えるけど。要約すれば印象やイメージによって人の行動が制限されてしまうのが呪いってこと……例えがおかしいかもしれないけど、私の言いたいことは伝わったかしら?」
「……さっき名前が呪いって言ったのは、何となく分かったような気がします。具体的には説明できないですけど」
そう言うと垣さんは安心したようだった。
「でも興味を持ってくれる人で良かったわ。受け付けない人は呪いなんて聞いただけで引いちゃうか、呪いなんて馬鹿げた話だって切り捨てて、話も聞いてくれないから」
「つまりそういう人は、呪いって言葉に呪われてるんですね」
妙な言い方だったが、要はそういう事だろう。かくいう僕自身も呪いという言葉を聞いただけで、宗教染みたうさん臭くて良くないものだと決めつけていた。いや、今も完全には払拭できてはいない。
「けど、それが分からないからこそこんなに問題視されているのよ―――ところで、何でこんなマニアックな話になったんでしたっけ?」
「妙な名前を付けるのは名付ける人間が名前の及ぼす影響や性質を知らないからって話からだったと思います」
「ああ、そうだったわね」
「で、その――名前が呪いってことを知らずに名前を考える親が増えてしまったって事で良いんですか?」
「端的に言えばそういう事ね」
僕は今の話を聞いて何か思うことがあり、悩むように黙り込んでしまった。
そんな僕の様子を見て、垣さんは問いかける。
「何か引っかかる?」
「呪いにプラスマイナスの両面があるってのが、今一つ分かりにくいですね。マイナス面なら呪いという言葉の想像通りなんですけど、プラスに働くのがイメージし辛いです」
「なら善い面に働くのがお祝いで、悪い面に働くのが呪いって考えてみたらどうかしら」
「お祝いですか?」
「ええ。祝うと呪うって、漢字で書くと似ているでしょ? 昔は同じ漢字だったからね」
垣さんは言いながら、空に文字を書いた。
「そうなんですか?」
「ええ。きっと仁君みたいにプラスマイナス両面の区別がつかなくて分かれていったんだろうなって思うけど……あ、今までの話は全部、私の個人的な見解であって、公認命名士の共通認識って訳じゃないからね」
そう釘を刺された。けれども色々な意味で簡単に吹聴できる話ではない。
「それはそれとして、具体的にはどういう状況になるんですか? 名前が呪いだって分からないと」
垣さんはコーヒーを一口啜った。
「それを説明するにはもう一つ知ってもらわないといけない事があるわ――呪いっていうのは、それをかけた本人にもかかってしまう恐れがある。人を呪わば穴二つって言葉があるでしょう?」
「言葉としては知ってます」
「穴っていうのは墓穴のこと。つまりは人を呪ったらそれと同じくらいの効果が自分にも跳ね返ってくるというのを戒めている言葉なのよ」
「冬に扇風機を回したら、自分も風邪を引くかもしれないってことですか?」
「言ってしまえば、そういう事ね」
「それで、その扇風機の話が名前に置き換わると、どんなことが起こり得るんですか?」
「一番分かり易いのが、名付け親のコンプレックスやトラウマを克服させるために子供の名前を考える場合かしらね。これは意識の段階で良し悪しの区別が付けられないから難しいのだけれど」
「よく分からないんですが、それはさっきの話だと祝おうとしているんじゃないんですか?」
「目的としてはね。けれど言った通りほとんどの人が使い方も仕組みも理解していない。だから必然的に間違いが多くなる」
「祝っているはずが呪っている状況に陥っているんですか?」
「そうなるわ」
一先ず会話の内容は理解できるが、実際の問題に置き換えるのが難しい。
僕もコーヒーで口の中を潤した。砂糖は使っていなかったが、構わなかった。
「例えば?」
「例えば子供の名前に『正』という字を使うとするわね。この時、名付け親の意識が正しい生き方をしてほしいと意味を込めるのか、間違った生き方をしてはいけないからと意味を込めるのかでは、全く違う意味合いになってしまうの」
「そうですか? 意味合いとしては結局正しく生きてほしいってことになりませんか?」
「意味合いとしては確かに似通っているのだけれど、ここで人を呪わば穴二つって言葉を思い出して。子どもに正しさを求めるという事は、どういうこと?」
「自分にも正しさを求めるって事ですから、この場合は名付け親も正しさを求められるってことですか?」
「そう。自分の正しさを求められて、とどのつまり子供の育て方や教育方針にも滲み出てきてしまう。その時、どういう意味を込めて名前をつけたかが重要になる。『間違った生き方をしないように』って言葉には子どもが間違いを起こすことを前提としていたり、間違いや失敗を許さないって意思も見え隠れしている。厳格さだけで間違いを容認しないほど余裕がない心理状況が名付け親に宿っている。そんな人に育てられたとしたら? 上手くいけば品行方正な人間になるかも知れないけれど、呪いは善悪の両面を持っているからプラスの面が上手く機能しないと…」
「マイナスの面が働いて、ぐれたり反抗的な人間になる」
「すごい極論だけれどね。イメージは出来るでしょう?」
「…はい」
僕は、その例え話に自分の現状と母親の事を思い浮かべていた。
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