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「字から連想してしまう呪いってことですね」
さっきまでの話と合わせて言えばつまりはそうだ。垣さんも肯定した。
「それでね。不満足名称の四つの分類を述べたけれど、それの大多数はこの言霊と字霊の事を無視しているから起きているんだと、私は思っているわ。まず現代の名付けの特徴として語感や言葉の響きから名前を考える人がとても多い。まずこれが言霊の無視ね。この時点で『人名にふさわしくない名前』と『日本人としてはふさわしくない名前』が出来上がりやすい。そして次にその名前に無理矢理漢字を当てはめるから、最終的に『当て字や分割読みをする難読な名前』になってしまう、これは更に字霊の無視もしてしまっているわね。字霊を無視する名付けとしては、他にも悪とか凶とか未とか負の意味を持っている字を平気で使ってしまったりすることもあるし、組み合わせが熟語になってしまうと知らない場合もあるわ。これが『漢字の使い方が不適切な名前』になる。では、なぜこうなってしまうのか? これは名付け親が名付けは呪いってことを理解していない上、言霊も字霊も無視してしまっている理由の他に、先に言ったハイブリット言語である日本語特有の問題もある―――要するに日本語にはこう書かなければならない、こう読まなければならないっていう厳密なルールがないの。それはつまり幾らでも融通が利く創造性があるってこと。外国語をカタカナ語にして日本語の会話に混ぜてトークしたり、和製英語や新語や略語、若者ことばみたいに次々に言葉を作ることが他の言語に比べて容易い構造をしているのよね。だから、無理矢理な読ませ方であっても絶対に間違いとは言えないし、新語と同じようにいずれは慣れが出てくるわ。例えば航とか菜摘みたいな名前は昭和の初期から中期にかけてはでは、今でいう不満足名称だったし。時間と共に受け入れられて、それが普通になって、更に個性を求めて新しい不満足名称が生まれる」
いたちごっこね、と垣さんは締めくくった。
「それが日本語の持っている個性でしょうから」
僕がそう感想を述べると垣さんの口角が明らかに上がったのが分かる。
「仁君は理解もしてくれる上に気の利いた返事もくれるから実に話し甲斐があるわ」
「そのうち、新しい漢字を考える人とかも出てきそうですね」
「否定はできないわ。名前として使用が認められている常用漢字は現在三千字あるけれど、それでも少ないって苦情を言う人はいるからね」
「解決策はないんですか?」
「難しいわね。けど危機感はあるんじゃないかしら? だからこそ、こういった改名制度が試験的に導入されたりもしている訳だし。けれど結局は名付け親の感性次第」
「そうですよね」
「でも仁君は大丈夫よ」
根拠のないその言葉が、何故だか今日一番すんなりと僕の中に入ってきた。
「なんで、ですか?」
「感性に良し悪しとか普通も異常も言えないけど、私の名前をおかしいと感じるあなたの感性はやっぱり正しいと思うわ。何と言われようと何年経とうとも、私は私の名前を玩具にされているという思いを払拭できないもの。だから将来、仁君が名付け親になるとしても、きっときちんと子供のお祝いができるわよ」
「そうでしょうか…」
チャイムがなった。特別進学コースの生徒は普通科の生徒より授業時間が多いためその授業の終わりを告げる鐘だった。そしてその間の時間が僕の面談の持ち時間だった。
垣さんの話が面白くて時間を忘れてしまっていた。関係のない話しかしていない事に申し訳なくなった。
「すみません。時間が」
「いいえ、キチンと面接できたから大丈夫。きちんと仁君の名前は考えられるから安心して」
そう言うが、とてもきちんとした面談だったとは思えなかった。先生の脱線した話を聞くだけで教科書を触りもしなかった授業のような、面白いが実りのない時間に思えた。
「交互に質問のはずだったのに、自分だけ聞きたいことを聞いてしまいました。すみません」
「かえって助かったわよ。質問されるのが一番教え易いの。仁君に少しでも名前のことに関心を持ってもらえたなら良かったし、不満足名称を失くす解決策っていうのは、こうやって名前の理解を深めてもらうことかもしれないわ」
垣さんは書類をまとめ始めた。
僕もそれに合わせて帰り支度をする。人から名刺をもらったのは初めての事だったので、勝手が分からず、結局は自分の財布にしまうことにした。
それから残っていたコーヒーを飲み干すと、一言お礼を言ってから退室した。
「ありがとうございました」
仮に今のような面談で自分の名前を決められるとしたら、賛否両論が分かれると思う。しかし誰に何を言われても、僕の中には得も言われぬ安心感と満足感があった。
今日は部活もなく、お使いも結局は頼まれなかったので時間があった。このまま帰る気になれず、どこかに寄り道して帰ろうと思い考えを巡らせる。校門を出る手前で閃きがあり、踵を返して図書室へ行くことにした。
図書館は教員棟と呼ばれる、職員室や校長室が集まってできている建物の二階にある。北側にあるため、前の廊下は陽の光があまり当たらず暗く寂しい。放課後に来ると尚更だった。図書室の中には司書の先生と、生徒が数名だけしかいなかった。普段はあまり利用しないので、二、三人の利用者が多いのか少ないのかは分からない。
閲覧用の机にカバンを置いてスペースを確保すると、入り口横にあった蔵書検索用のパソコンを使って名前に関しての本を探した。改名制度に指定されている高校の図書室だけあって、思った以上に専用の蔵書があった。一先ずタイトルで気に入った本の照会番号をメモしていった。だが実際に手に取って見ると、琴線に触れる内容の本は見つからなかった。それでも画数で見る姓名判断について書かれた本は、垣さんとの話につながる何かが有るような気がして、借りることにした。
不意にある考えが過ぎり、また蔵書を検索した。
呪い、とフリーワードで検索してみると、こちらも案外な数が揃っていて少し驚いた。例によって気になったタイトルを控える。こっちは読んでみたい本が三冊も見つかってしまったので苦笑した。
それからは席について本を斜め読みしつつ、今日の面談の事を思い返していた。色々と発見あった。名前に対しての認識もそうであるが、そもそもああいう話を面白いと思ってしまった自分が意外だった。
所謂ところのゲームや漫画の類は母に禁止されていて、家にはほとんど置いていない。父がいなくなってからはより拍車が掛かっている。テレビにしても基本はニュース番組ぐらいしか見ることが出来ない。バラエティの類はくだらないと一蹴されるか、勉強しろと小言を言われて強制的に消されてしまう。中学の時は、前の日の番組の話で盛り上がるクラスメイトが羨ましく見えた。有名人が傍にいなかったら、今よりももっと世間話に付いて行けなくなっていたと思う。
そんな圧が圧し掛かっているせいか、将棋以外に興味を持ったのは久しぶりの事だった。
その時、垣さんとの会話も思い起こされて、僕はもう一度、蔵書検索をかけた。
打ち込んだ『個性』というたった二文字の単語に対して、またそこそこの数の本が該当結果として表示されている。例によってタイトルを控えてから探し始める。そして、二冊ほど自己啓発系の本を持ってきた。ちょうどその時、司書の事務員に閉館時間だと言われ、この二冊と先に持ってきていた三冊を合わせて借りることにした。姓名判断の本は粗方読んでも今一つ面白みがなかったので返却してしまった。
この高校に入学して初めて図書室から本を借りた。通学カバンがトレーニンググッズになってしまった。次からは計画的に借りようと反省した。
図書室を締め出されると、いよいよ大人しく家路についた。駅に着く少し手前で教室はまだ空いているのだから、何冊か置いてくればよかったと気が付いたが手遅れだった。
日が暮れてもあまり寒くならず、風も吹かない天気だった。荷物が重くなっているからか、家に着く頃には少し背中が汗ばんでいた。
「ただいま」
家に上がると、リビングには顔を出さず一直線に部屋に入った。カバンを置き、着替えようとしたところでノックが聞こえた。
「孝文、帰って来たの?」
「今着替えてる」
そうは言ったが面倒事は早めに済ませるに越したことはないと、上着だけを脱いでドアを開けた。部屋も廊下も暖かくないのでちょっと後悔した。
「なに?」
「面談はどうだった?」
「まあ、想像してたような感じではなかったよ。結構面白かった」
「面白かったって、どういう事? 面接だったんでしょ」
ちょっとした地雷を踏んでしまったと、すぐに今の発言を悔いた。
「面接もキチンとしたさ。ただ、名前一つ取っても色々と考えさせられるなって、その人の話を聞いてそう思ったって意味だよ」
「あのね孝文、面談っていうのはその人の人となりだとか、性格とかを判断するためにやるものなんですよ。あなたがやってきたのは、ただのおしゃべり」
その言葉で鼓動が一気に早く、激しくなるのを感じた。母には見えない側の手を固く握りしめ手の平に食い込む指先が痛く、鼻から吸って吐き出すだけの空気がとてつもなく熱かった。
「…」
「何か言いたいことがあるの?」
「いや、別に」
心は煮えた油のようにドロドロと熱い何かが波打っている様な感覚だったが、頭の中は不思議と不気味なまでに冷静になっていた。だからなるべく、なるべく穏便かつ速やかにこの無駄な時間を終わらそうとだけ考えた。
「その面接をしたのはなんて人」
「さあ」
「面白い話をしてたのに、相手の名前も分からないなんて、本当に喋ってただけなの?」
ため息交じりのつぶやきが、鼓膜を突き抜け容易く中に入ってきた。その瞬間、一つ前の冷静さが嘘のように吹き飛んでしまった。
財布の中にしまっていた垣さんの名刺を取り出すと、まるで殴るかの勢いでそれを突き出した。
「ほら、この人だよ」
「この名刺は預かるわ。いいわね」
「なんでさ」
「もう必要ないでしょう」
「そうとは限らないだろう」
「じゃあいつ使うの」
「分からないけど」
「それは使わないのと同じよ」
「…」
そう言われて、すぐさま反論が思い浮かばなかった自分に無性に腹が立った。
「もうすぐ志郎さんが帰って来るはずだから、それまで勉強でもしておきなさい」
母は言い残すとすぐに戻って行った。
それからは一瞬のうちに時が経ったように気が付けばベットの中にいた。夕飯を食べた記憶も、風呂に入った記憶もあるのに、実感だけがない。まるで記憶だけを後からインプットされた様な気持ちだった。
どうしたっていい夢を見れそうにはなかったが、心中の名状しがたいわだかまりは眠ることが一番の解決策だと思った。
「…」
しばらくは眠れなかった。あれこれと色々な事が勝手に頭の中を右往左往した。それだけ浮き沈みと喜びと怒りのギャップが激しい一日だった。だが、何かい寝返りを打ったかという事を数え始めると心に隙間が生まれたのか、いつしか眠りにつくことが出来たのだった。
その日は荒唐無稽な夢を見た。
しかし起きた後は、荒唐無稽な夢を見たということしか覚えていなかった。
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