将棋仲間との会話

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「ところで、そんなことを考えるのは、やっぱり名前が変わるってのが原因か?」 「そうですね。他にもありますけど、結局はそこです」 「他っていうのは?」 「名前を変えることに対する姿勢が、何ていうか…しっかりしている人が多いんですよね。それに比べて自分は何なんだって思ってはいます。親に言われるがままに名前を変えるのが、何も考えていないようで恥ずかしくて」 「坊主が行っているような学校が出来た経緯ってのは、ニュースとか新聞で聞きかじったくらいの理由なら知っているよ。無茶苦茶な名前で苦労する奴を減らすってのが目的なんだろ?」 「簡単に言うとそうですね」  そこで僕は垣さんとの話を思い出して、少々得意げに言った。 「あ、でも、無茶苦茶な名前でも親はキチンと意味や理由を考えているんですよ」 「そんなのは当たり前だろう。何の意味もなしに人の名前を考えられねえよ」 「そうですよね」  あっさりと返されてしまって、少し恥ずかしくなった。 「けどな、どんなに深い意味を考えて、どんなに良い名前を付けたって、タダで素晴らしい人間にはならねえよ。こんな人間になってほしいんなら、名前じゃなくて育て方に頭悩ませなけりゃどうにもならねえじゃねえか。勝って名前を付けたら、勝負ごとに全部勝てるようになって生きて行くんなら誰も苦労はしねえよ。育て方がモノを言うんだ、名前じゃなくてな」 「親次第なんですかね」  頭に母の顔が過ぎった。その結論が正しいならば僕は既にダメなような気がする。けれども、九兵衛さんは再び首を横に振った。 「ただ、それもまた違う」 「え?」 「立派な人間になるには『育て方』だけじゃなくて、『育ち方』も大事なんだよ」 「育ち方?」 「どんな人間になるか、子どもにだって責任はあるってことだ」 「けど、子どもは何も知らないじゃないですか。それを教える親や先生の方が重要じゃないですか」 「まあ、言うほど簡単な話じゃないしな、ここで答えがはっきりするんなら今頃日本は平和だろうよ。でもな教える側の…例えば親や先生だって人間だ、生意気な奴より教えてくださいって素直な姿勢の奴の方が教えていて気分が言いに決まってる」 「そりゃあ、そうでしょうけど」 「ならそういう人間に育てろって話になるから、やっぱり簡単じゃないな。けどやっぱり、親や先生だけの問題ってのは違う気がするんだよなぁ。人を殺しちゃいけないと教えたって殺す人間はいるし、人を殺さない人間はどんな状況になってもの人を殺さないもんさ。詰みまで指したって、一度も相手の駒を取らねえ駒があるみたいにさ……人間てのは、神様が打ってる将棋の駒なのかも知れねえな」  九兵衛さんは頭を掻いた。  少し気落ちした九兵衛さんを見て、この話を振ったことを謝った。 「すみません。なんか変な話題でした」 「いや、いいよ。坊主が悩みを打ち明けてくれたんだ、悪い気はしねえさ。ついでに言っておくけどな、坊主は育ち方のいい奴だと思うぞ」 「僕がですか?」  九兵衛さんは笑いがら頷いた。 「本気で研究してくるからこっちも本気で将棋を指すし、悩みを打ち明けてくれるから俺も考えられる。欲しい答えとは違うかもしれねえが、少なくとも俺は、坊主の力になってやりたいって気が起きるんだ」  それからは二人で将棋に集中した。劣勢はついに覆らず結局は負けてしまったが、自分でも驚くくらい詰みまで粘れたのが嬉しかった。  九兵衛さんが飲み物を奢ってくれると言ってきたので、甘んじてご馳走になることにした。受付にコーヒーと緑茶を注文して、席に戻ると今の対局の感想戦をしてくれた。九兵衛さんが感想戦を申し出てくれるのは初めての事だった。棋譜は残していなかったが、九兵衛さんは直前の局面くらいなら覚えていると言って容易く再現してくれた。普段から凄い人だとは思っていたが、また一つ遠い人になってしまった。 「ありがとうございます」 「今度からは二枚落ちじゃ厳しいかもなあ」  感想戦が終わるとただの世間話になった。僕は学校の事や冬休みの事を話し、九兵衛さんは正月に里帰りしてきた子供夫婦の事や、仕事の事を話してきた。年が明けてから息子夫婦に新しく子供が生まれたそうで、命名に頭を悩ましているそうだ。 「名前と言えば、九兵衛さんは自分の名前の由来って知ってますか?」 「知ってるよ。俺が九番目に生まれた子供だったからだ」 「へえ」 「拍子抜けしたか? けど、昔の名付けなんてそんなものさ。そもそも名前ってのは、それが何なのかの説明だろう。名前に意味を付けるなんて人間だけだし、みんながみんなそうするようになったのは最近だ。けど自分の名前が適当だと思ったことはないし、親の愛情は十分に感じてた。あれだけの大人数を育ててくれたんだ、生きてるうちはこの野郎と思ったことはあるけど、今となっては尊敬の念しか湧いてこねえなぁ」  やっぱり育て方と育ち方だよ、とさっきの言葉を反復して結論付けた。  九兵衛さんは、チラリと腕時計を見ると、 「さてと、〆切もあるから帰るかな」  と言って立ち上がった。  九兵衛さんは現役の小説家をやっている。このサロンで将棋を指すようになってから周りの人達に教えられて知った。知り合いが書いている本ならと思い立って読んでみると、ことのほか面白い内容で今では愛読者の一人になっている。 「まずいんですか?」 「まずくはないが、美味しくもないな」  僕もこの後にまた約束があったので帰り支度を始めた。本当は少し早いのだが、九兵衛さんに合わせることにした。  途中までは帰り道が同じなので、そこでも少し二人で話しをした。 「そう言えば、九兵衛さんが小説書くときのペンネーム、笹川雪でしたっけ?それってどうやってつけたんですか?」 「どうもこうもねえよ、単に自分で付けた」 「謂れはあるんですか?」 「笹川は名字そのまま。雪ってのはむか~しに親から聞かされた名前でな、もしも俺が女だったら雪って名前にしようと思ってたんだと。今と違って、生まれる前に性別なんてわかりはしないからよ、男だったら九番目に生まれるから九兵衛、女だったら雪が積もった日だから雪にしようと決めてたんだってよ、大分いい加減だろ? だから笹川雪って名前は、もしかしたら居たかもしれないもう一人の自分って意味で付けたんだ」 「へえ」 「もし新しい名前で迷っているなら、もう少し簡単に考えてもいいんじゃねえか? よっぽど変な名前でもない限り、名前で人生や人間が決まる何てことは起こらねえよ」 「そうですね。ちょっとは気が楽になりました」 「そんなら良かった」  やがて駅に着くと、そこで九兵衛さんと別れた。  サロンの最寄りの駅は少し登った高いところにあり、改札を通り抜けホームに出ると帰り足の九兵衛さんの後ろ姿が見えた。角を曲がりいよいよ姿が見えなくなるのと、電車が到着するアナウンスがほぼ同時であった。  自宅に向かうのとは逆の電車に乗り込み、街へと向かう。  電車の中では、九兵衛さんと垣さんの話を踏まえて、グワングワンに考えを巡らせていた。
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