友人との会話

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 駅の隣の公園を抜けると後は緩やかな上り坂が校門まで延々と続く。今日は寒いことは寒いが、幸いにも積雪や凍結はなかったので歩いて登るのに苦労はなかった。  校門の前には大きな池があり、かつてはここに張った氷の上でスケートをする輩もいたそうだ。今は温暖化の影響なのか、周囲の遊歩道に霜柱が立つのがせいぜいであり、人が乗れるほどの厚い氷が出来ることはない。  僕の通っているこの喜多平学園高等学校、通称・喜多高は、他の高校と一線を画す箇所が数多くある。  まず気になるのは昇降口がないという事だろう。まるで欧米の住宅よろしく、生徒たちは下足のまま校舎を出入りするのだが、上履きがないのかといえばそうではない。教室前に各人に専用ロッカーが宛がわれており、そこで靴を履き替える。上履きのまま外に出たり登下校すると怒られるのだが、体育の時は上履きで外に出ないと罰則がある。一体全体どういう意図をもって何をさせたいのだというのは、ここに入学した生徒が漏れなく感じる理不尽さだと思う。  他にもこの高校にはプールと校庭がない。代わりにゴムなのか合成樹脂なのかよく分からない様な物質で固められたテニスコート三、四面分の運動場があったり、国内で六番目に古い木造校舎があったりするのだが、その中でも群を抜いて特徴的なのが、入学した一部生徒の名前が変わる制度だろう。  何年か前に試験的に導入された改名制度がある。近年、個人の名前における人権的トラブルが多発し、問題視される傾向が強まっている。そういった事案の早期的解決策の一つとして、この高校の改名希望コースに入学した生徒は卒業時に公的な改名手続きを行った新名を受け取ることができる――というのがこの喜多高の最大の特色だろう。  テレビや新聞のニュースでごく稀に名前で起こったトラブルを耳にすることはあったが、正直自分には関わり合いのない世界の事だと思っていた。小学校や中学時代にも、有名人のような奇抜な名前の友人やクラスメイトは数人いたが、個人的に気になったことなどなかった。一番の変わり種の名前であった有名人があっけらかんとしていたからかもしれない。  僕自身も、別段自分の名前が変わっているから改名したと思って入学した訳ではない。だから改名希望コースに入ってきた他のクラスメイト達の苦労や悩みが聞こえた時は心苦しかった。公然と自分の名前を変えたい理由を話す生徒はいなかったし、誰かに入学した理由を聞かれることもなかったが、恐らく普通の名前に属している僕にとっては十分すぎる気まずさがあった。  いつの間にか歩くペースが落ちていたようで、教室に着いたのは始業の十分前だった。いつもより大分遅い時間で、遅刻したわけではないのに遅刻したような感覚になってしまう。 「お早う」 「…お早う」  例によって廊下のロッカーで靴を履き替えていると、若山という女子生徒に声を掛けられた。事務的な要件でしか女子と会話などしないので、自分に向けて挨拶されたのだと理解が一瞬遅れてしまった。  若山も有名人と同様に同じ中学から喜多高に入学した生徒で多少なり面識がある。なのだが、僕は女子と会話をするのは苦手ではないが得意でもない。いや、若山に限って言えば苦手と断言した方が良いかも知れない。 「おっ早よー、愛沙玲愛(あざれあ)ちゃん」  すぐ後ろから有名人が砕けた声を挟んでくる。  若山は肩に掛けていた通学用のカバンを振り、有名人にぶつけた。 「痛いなぁ」 「私、もう愛沙玲愛じゃないから。若山夏奈恵になってるし」 「三年になるまでは、一応旧名のままじゃん」  外腿を撫でながら愚痴を言う有名人を他所に、若山はつんと言い返す。 「やっと名前が変えられたんだから、そっちで呼んで欲しいの」 「夏奈恵」  言うや否や、通学カバンが再び有名人を襲った。一発目よりも鈍い音が耳に届いて、すこし可哀相になった。 「馴れ馴れしく名前で呼ばないで」 「ひどくね」  こうやって女子とも態度を改めないで接することが出来る友人を見ると、羨ましさなのか、図々しさに嫌気がさしているのか、上手く形容できない感覚になる。  人に敬遠されたり距離を置かれたりされるかもしれない発言は、僕には逆立ちしてもできそうにない。若山に限らず、今のように馴れ馴れしくするなと言われると思うと、得も言われぬ怖さがあり、僕はどうしても線を一つ引いた付き合い方しかできなくなってしまう。 「それで、乙川君と上村君はもう新しい名前決めたの?」  席がL字に隣接している三人なので、そのまま話をしながら教室に入る。入学当初は違和感を覚えたような会話だが、今ではすっかり慣れてしまった。このコースに入学して来るのは、名前に何かしらの悩みを抱えている人間が大半であるから、名前に関する話題は尽きない。いよいよ新名を授かる時期ともなればなおさらだった。 「迷ってんだよね。正直、有名人も気に入ってるっちゃあ、気に入ってるし。変えずに済むんなら、このままでも良いんだけど」 「何のためにこの学校に入ったのよ。名前が変わるのが校風なんだから、嫌ならそもそも入学しなきゃいいじゃない、普通科だってあるんだし」 「そうなんだけどさ」  もごもごとお茶を濁す有名人が黙ってしまったので、若山の視線がこちらにきた。 「僕はまだだよ。面談も今日だし」 「あれ? まだなの? 早生まれだっけ?」 「ああ…うん。まあね」  うっかりまた地雷を踏んでしまった。知られたからと言って揶揄われたりするほど親身な間柄ではないが、どうにも他人に誕生日を教えるのにはトラウマに似た何かが芽生えてしまう。  そして案の定、若山さんは誕生日を聞いてくる。 「いつなの?」 「来月」 「の?」 「…十四日」 「え、うそ。バレンタイン?」 「まあね」 「へえ」  そういうしかない相槌が返って来た。そもそもクラスメイト以上友人未満の微妙な立ち位置の人間の誕生日がバレンタインデーだったからといって、何かが盛り上がる訳がない。ふとした瞬間に「ああ、そう言えば」と、名前も顔も思い出せないあいつの誕生日がそうだったな、と思い出されるのが精々だ。  それ以上若山さんとの会話が続かなかったが、上手い具合に有名人が入ってくれたので助かった。 「そう言えば、愛沙玲愛ちゃんの第三者面談ってどんな人だったの? 俺は結構、歳食ったおっさんでさ。神山なんとかさんって言ったけど、忘れちゃった」  馴れ馴れしく本名を呼ぶ有名人を若山は、ジロリと見たが何を言っても暖簾に腕押しと思ったのか、何事もなく返事をした。 「私は女の人。すっごい面白いな人だったけどね」  若山は悪戯に随分と含みのある様なことを言った。有名人のように興味にかられ机から身を乗り出すまではしなかったが、聞き耳はたった。 「面白いってどんな感じ?」 「うまく説明できないなぁ」  記憶を反芻しているのか、言葉を選んでいるのかは分からないが小難しい顔をして頭を捻っている。けれども結局考えはまとまらなかったようで「うん」と、一つ頷いてから、 「うん。説明できないくらい、面白い人だった」 と結んだ。  若山さんは良くても、こちらとしては不完全燃焼でどうにももやもやする。 「なんだよそれ」  案の定、有名人はぶつくさと言い出したが、興味が少しずれたところに落ち着いた。 「そう言えば、仁も女の人だっただろ。面談相手」 「そうだね」 「なら愛沙玲愛ちゃんと一緒じゃん。命名士って三人いて、女は一人だろ?」 「そうなるわね」 「なんて人?」 「ええと」  カバンの中に入れていたクリアファイルから、事前に配られたプリントを取り出す。そこには事務的な説明文と日付が記載されており、末文に担当者の名前が書いてあった。面談なんか担当者が変わったところで大差ないと思っていたのでまじまじと担当者について考えるのは初めての事だった。  取り出した用紙を二人に見せると有名人は小首を傾げた。 「カキ…何て読むんだ? 下の名前」 「それは言えないなあ」  疑問の答えを聞こうと顔を見た僕らに対して、若山はいかにも面白そうに含み笑いで応えた。 「何で?」 「垣さんとの約束なんだもん」 「約束?」  僕と有名人は顔を見合わせた。が、お互いに分かっていないという事しか分からなかった。その様子が彼女の期待通りであったのか、更に悪戯心に満ちた笑顔になっていく。 「そ。『まだ私との面談が残っている生徒がいるから、もし友達にいても名前は教えないでね』って」 「どういうこと?」 「最初、垣さんが自分の名前の話しをするんだけど、それが結構重要なのよね。乙川君が垣さんと面談なら残念だけど教えられない」 「メッチャ気になんだけど」 「ま、私たち全員の新名が決まったらね」  有名人がわざとらしく不貞腐れたり、懇願してみても若山はそれを意に介さずにあしらうだけであった。  どれだけ言ったところで無駄だとようやく悟った有名人は、不意に話題を変えた。 「ってことはひょっとして、『夏奈恵』って新名はその人の命名?」 「そうだけど」 「やっぱり」 「何で分かったの?」  今度は若山が腑に落ちない様子だった。そして僕は若山の含みある話も、何故有名人が命名者を言いたてかも分からずもどかしかった。けれども、有名人が誰の名付けか分かった件に関しては、本人がすぐに明かしてくれた。 「結構な噂になってるよ。今年の新名希望、女命名士が考えたやつが採用率百パーなんだってさ。今のところね」 「へえ」  と、思わず声が出た。  姓名判断と言えば、字数やら字画やらを気にするばかりで、こちらの意向などはまるで無視されるのだろうと勝手にイメージをしていた。けれども、そこまで多く選ばれているのなら、ある程度こちらの意向も汲んでくれるのかもしれないと、少しだけ希望と期待感が生まれた。 「とりあえず楽しみにしてて」  話がキリよく途切れたところに、丁度よく先生が教室に入ってきた。  それまでざっくばらんに散らかっていた教室が、誰言うでもなく整理されていく。 「美人だったらさ、写真撮って来いよ」  調子よくいう有名人の小声に、適当な相槌を打つとホームルームが始まった。  それからはあっという間に時間が過ぎていった。二つとして同じ日はないと分かってはいるが、教科書を目で追い、黒板に板書された文字を淡々とノートに書き加えて行く日々は冬休みが明けようと変わることもなく、余程大げさな事が起こった日以外の記憶は似通っている。  その内に昼休みを告げる鐘がなった。
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