クリスチャンとの会話

3/3
前へ
/32ページ
次へ
 ふと、アメリカの学校事情的にではなく、クリスチャン的にはどうなのだろうかと気になったので、そのまま思ったことを聞いてみた。 「聖書には、個性って何かとかって書いてないんですか?」 「ワタシの勉強不足かも知れないけど、多分ないと思う。でも聖書を読んでると日本人の言う個性とは反対のことを言っているんじゃないかなって思う事はあるかな」 「というと?」  聖書的な解釈というのには正直興味があった。そもそも世界で一番信徒の数が多く、人類の歴史の中で一番読まれた書物は聖書だと聞いたこともある。きっと幾人もの悩みに光明を与えてきたのだろうと勝手な妄想が頭に蔓延った。迷えるものを救うという、良く聞くキリスト教の宣伝文句も踏まえてもルツさんの話を聞いておいて損をすることはないと思った。  垣さんとの面談以降、どうも呪いやら宗教やらオカルティズムなことに琴線が触れるようになっている気がする。やはり垣さんの言う通り、こういった話題が好きな性質なのかもしれない。 「日本人の言う個性ってさ、自分一人だけのものじゃない? もしくは自分が得をするためのものっていうの? 自分の為に生きていきたいって思うのは仕方ない事なんだけど、聖書では自分自身だけの為に生きようとするのはダメって書いてあるの。ワタシが思っている大事なことは二つあって、まず一つは神様を信じる事。もう一つは愛を実践する事」 「個性の話とはずれてません?」 「そんなことないよ。人間っていうのは神様が作ったんだから、もし個性っていうがあるんなら、それは神様から与えられたものなの」 「それは分かりますけど」 「でもね、神様から与えられたからって自分で好き勝手に使っちゃダメなんだよ。きちんと正しく使わなきゃいけない」  いつになく強気なルツさんに気圧された。 「ど、どうすれば正しいんですか?」 「簡単だよ。その為に『愛』があるんじゃない。愛ってさ、三種類あるって知ってる?」 「三種類?」 「うん。アガペーとフィレオとエロースっていうのがあって、他人の為の愛、自分と他人の為の愛、自分の為だけの愛の三つがあるの。やっぱり最初は自分への愛から始まっちゃうんだけど、どんどんと他人の為の愛を持とうとするのが、大切なんじゃないかなって、ワタシは思ってる。ほら、右の方を叩かれたら左の方を差し出しなさいって、有名な奴があるでしょ」 「右の方じゃなくて、頬ですよ」 「? 何が違うの?」  僕が指摘すると、ルツさんは小首を傾げた。方と頬を間違えて覚えているのか、それとも発音が聞き取れないのか、どちらにしても話の腰を折ってしまいそうだったので深くは言わなかった。 「まあ、言いたいことは分かるんで大丈夫です」 「そう? でね、日本語だと隣人愛って言葉があるじゃない? これがつまりイエス様の愛の使い方っていうこと。これを実践できれば素敵なんだけど、ワタシは弱いから、まだまだイエス様みたいな愛の表現はできないでいる。だけどワタシにはワタシの愛の表現があるでしょ? これがワタシの個性って事なんじゃないかな?」 「やっぱりさっきの話の通り、他との違いが個性ってことですか?」 「分かんないけどそうなるのかな。けど、日本人はその『人との違い』しか大事にしてない様な気がするよ? 違いだけじゃなくて、ソレを人の為に使わないとダメだよ」 「人の為、か」 「うん。人の為に使わなかったら、例えば人を殺しちゃうのだって個性的になっちゃうじゃん。やっぱり愛がなきゃいけないよ」 「隣人愛が大切って事は、自分への愛っていうのはどうなるんですか? やっぱり捨てるべきものなんですか?」 「違うよ」  ルツさんは僕の意見を素早く、そして強く否定した。 「でも、右の頬を叩かれたら…って奴は自分を捨てないとできないじゃないですか。自己犠牲とも言いますし」 「自分を捨てるっていうのは、多分仏教の考え方じゃない? さっき言った三つの愛は別々のモノじゃなくて、全部つながってるんだよ。自分の為の愛っていうのは、自己中心的な愛もあるけど、自分で愛を実感できなければそもそも愛が何なのかって分からないでしょ? それに自分より相手を愛するんじゃなくて、他人を自分と同じように愛さなければいけないの。自分への愛がないっていうのは、自分がないのと一緒だもん。誰も愛せなくなっちゃうじゃん」 「自分が愛せれたいために、人を愛するのとは違うんですか?」 「それも違うかな。聖書の教える愛はアガペーなんだけど、これは見返りを求めちゃいけないのね」 「愛は一方的って事ですか?」 「そうじゃないんだよなぁ」  目をつぶり、眉間にすごい皺を寄せると、うんうん唸りながら考え込んだ。  やがてルツさんは徐に語り出す。 「ええとね――日本語が難しいから上手く言えないけど、愛っていうのは許せるかどうかなんだよ」 「許せる?」 「そう。例えば誰かがヒトシの大切なものを壊しちゃったとするじゃない? けど壊した人がどういう人かで、怒ったり恨んだり許したりする人はバラバラになるでしょ?」 「そうですね、多分」  正直、今壊させれて困るような大切なものなどないのだが、感覚としてだけ理解して話について行こうと思った。ただ、怒ったり恨んだりという言葉に反応して脳裏には母の顔がちらついた。 「そうすると許せる人ほど自分が愛している人にならない?」 「・・・まあ」 「逆に自分の愛から遠い人ほど怒って許せなくなると思うんだよね」 「そうですね」 「だからね、大切に思ったり好きだって思うのも愛だとは思うけど、愛が一番素敵なのは大事なものが壊れちゃって悲しくて怒っちゃっても、やっちゃったことはしょうがないって許してさ、変わらず好きでいられることなんじゃないかな」 「…言いたいことはわかります」  正直にそう思った。  ルツさんはいつもこうやって、臆することもなく真率な気持ちを素直に口にする。だからその声は人の耳にすんなり入るのだろう。普段の少し抜けていたり、天真爛漫な性格に油断していると虚を突かれる。それ程長い付き合いではないのだが、この人には驚かされ、それ以上に感嘆させられることが多い。  ルツさんは僕の手をいきなり握ってきた。こういうことでも驚かされることが多い。そして、何とも落ち着くような表情と声で言った。 「ヒトシはさ、名前が変わるって、すごい経験をしてるよ。普通はない事だから色々考えて悩んでるんだと思うけど」 「バレてたんですね」 「でも、絶対大丈夫。神様はヒトシのことも大好きで、きちんと愛してくれてるから」 「そうだと良いですけれど」 「絶対そうだよ。だから、名前が変わったら私に一番に教えてね」  そういって微笑んだ。ルツさんは僕に限らず落ち込んでいる人間をこうやって元気づける。人を放っておくことが出来ない性質なのだろう。  こうやって元気づけられるとホッとする反面、申し訳なさや情けなさも極まってくる。そして、自分は誰一人としてこうしてホッとさせてあげることはできないのだろうと自己嫌悪する。いつから他人の好意を素直に受けられなくなったのだろうか。裏を勘ぐってしまったり、打算的なものの見方をしてしまったり、さもなければ今のように自分と見比べて自分を軽蔑してしまう。  その後はまた他愛のない話をした。  散々、大丈夫だよと断られたのだが、会計は僕が強引に出した。  ジェントルマンだねぇ、と揶揄われ店を出るとそのまま別れることになった。アメリカへ帰る引っ越しの準備が残っているらしい。路地を抜けメインの通りに出ると、ルツさんは最寄りの地下鉄の駅へ、僕は父の店へと向かった。  人込みはいくらか緩和されているかと期待したが、ますます増えているようだった。特に正直に混んでいる道を歩く理由もないので、脇の道に逸れて夜に向けて準備している店々の前を抜けていった。一つ道が違うだけで、大分喧騒からは遠のいた。  今日、ルツさんと会って話をしたのは正解だったと思った。  相変わらず眩しく映る人であったが、色々と助かった。果てしなく遠いけれど、手繰り寄せればいつか手元に掴めるような、そんな手ごたえがあった。  けれども、同時に考え事の種も貰ってしまった。  ルツさんの考える愛と僕の考えていた愛とでは、かなりの違いがある。漠然としすぎていて整理も追い付かないが、考えずにはいられなかった。ルツさんは愛は許すことだと結論付けた。もしそうだとしたら、僕はただでさえ数少ない周りの人をどれだけ愛しているだろうか――いや、周りの人間といってごまかしてはいけない。  僕は母を愛せるのだろうか。そして愛されているのだろうか。  今、僕の中にある母に対しての気持ちは、憎しみまでとは行かないと思う。どちらかと言えば怒りと言った方がすんなりと落ち着く。  僕は怒っているんだ。   母のやり方。  母の態度。  母の口調。考え。性格。  それに怒っている。  その全てを許せるだろうか。「仕方ないなぁ」なんて茶化して、笑って許せるのだろうか。  そんな欧米の古典演劇を見て拗らせた二流作家が書いた台本の主人公みたいな自分を、ふとした瞬間に客観視してしまい、恥ずかしくなった。別に誰に見られている訳でもないのに咳払いをしてごまかした。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加