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父親との会話
それからは駅までの道のりがまるで瞬間移動でもしたかのように異様に早く感じられた。どういう道のりで来たかは覚えているのに歩いてきた記憶がない、そんな奇妙な感覚があった。
改札を抜けホームに辿り着くと、帰路とは反対方面の電車がきたところだった。勿論、行き先が違う電車だと気が付いてはいたが、思い切ってそれに乗り込む。今日は行くつもりではなかったが、あのやり取りのせいで、父の顔が見たくなったのだ。
父は数年前に仕事を辞め、今では小さいながらも喫茶店を切り盛りしている。
元々趣味でコーヒーや紅茶に凝っていた人なので仕事を辞めたと聞いた時こそ驚きもしたが、喫茶店をすると知った時には驚かなかった。
父の店は地元では有名な大学の近くにある。だが、この街は都会とも田舎とも言えない半端な発展の仕方をしているので、大学の近くといえども主な交通機関が地下鉄程度しかなく、その上店を知っている人に連れられてようやく見つけられるような立地の場所にあるので、果たして繁盛しているのかどうかは知れない。少なくとも未だ息子が常連客になる程度のお客しかいないように思える。
駅に着くと地下鉄に乗り換えようかと少し悩んだ。歩いて行くには少し躊躇う距離だが、電車賃もバカにはできない。この街の地下鉄は偶に乗る高校生にとっては一考させるほど料金が高い。
そうして悩んだ挙句、結局は地下鉄を使うことにした。今日はお金よりも時間が惜しかった。
座席に座われない程度に混んでいた地下鉄を降り地上に出ると、雪が降っていた。積もりそうな雪ではなかったが、事と次第によっては帰りの電車が止まるかも知れないという懸念は生まれた。
地下鉄の出口から少し南に歩くと地方銀行の支店がある。その角を曲がると一方通行の路地になる。居酒屋、本屋、米屋、カレーショップ、ケーキ屋、民宿と店々が思い思いに立ち並んでいる。今では裏道扱いされているが、江戸時代にはこちらの方が本道だったらしい。それを知っていると、並ぶ看板たちからは、ここを廃れさせてはならないというような得も言われぬような気配を感じる。
喫茶店までの道のりはとても静かだった。周りには住宅や大学もあるので、普段はもっとガヤガヤとしているのだが、自動車が一台通ったきりそれ以上大きい音は耳に入らなかった。
突き当りの丁字路を右に曲がる。少し先に滅多には開かない古本屋があり、その真隣が父の店だ。
扉に掛かっている「OPEN」のプレートと店内から漏れる橙色の光を見て一安心する。父にはもう一つ趣味があり、それのせいで定休日でもない日に前触れなく店を休むことがある。
「いらっしゃい」
扉に付けられた鐘の音が店内に響くとカウンター越しに父さんの姿が見えた。
「よう、仁」
「ブレンド一つ」
「はいはい」
メニューを見るまでもなく、この店の最安のコーヒーを注文した。
入り口から見て、窓際の一番奥の席が僕の定位置だ。この店が開業した当初から通っているのだが、未だかつてこの席に座れなかったことはない。
背負っていたリュックと脱いだコートを前の椅子に掛けてから座ると、一先ずと言わんばかりに父さんが水とおしぼりを出してきた。
「相変わらず暇そうだね」
「何言ってんだ、丁度いまお客が捌けたんだよ」
「ふうん」
「信じてないな。これでも、知る人ぞ知る名店と言われてるんだぞ、この店は」
「じゃあ僕はこの店を知らない人なんだね、きっと」
父さんはカウンターに戻り、ごそごそとキッチンで作業を始めた。
僕は隣にある本棚から、前に来た時に読みかけだった本を探し手に取った。
とても一般的な喫茶店に置いてあるラインナップとは言い難いが、親子のせいか本の趣味が似通っているので、自分が読む分には色々と楽しみがある。
途中で切り上げたページを探して、本をパラパラ捲っていると不意に声を掛けられた。
「今日は何してたんだ?」
「今日から学校」
「あ、今日から始業か。どうだった?」
「別に。可もなく不可もなく」
「そうか」
「…けど」
僕はさっきの面談の事を思い出していた。愚痴を言いに来たわけではないが、口を開けば愚痴しか出てこない様な気がした。
「ん?」
「もう少しで仁って名前が変わっちゃうな」
結局、出てきたのはそんな台詞だった。
「ああ、そう言えばそうだな」
父さんはサービスのつもりか、大きめのサイズのカップを僕の前に置いた。ミルクを使わないで飲むことは知られているので、ソーサーの上には角砂糖だけがちょこんと乗っかっている。
「何か変な感じがする。名前が変わるって」
「そりゃあそうだろうな。嫌なのか」
「…分かんない。けど嬉しいとは思ってない」
「そっか」
父さんは苦笑いで応えた。
一体、どう思っているのだろうか。今まではとても憚られたのだが、思い切って聞いてみたいと、そう思った。
「父さんは…」
「ん?」
「父さんは嫌じゃない? 僕の名前が変わるって」
ほんの少しの間、無言で何かを考え込んでいた。そして、僕の荷物を隣にどけると正面に座った。
「複雑、の一言だな。少なくとも嬉しいとは思ってない」
僕は「そっか」と返事をした。
そして自分の中で、何かが勢いをつけてしまっているのに気が付いた。いっそのことと思う否やに声を出てしまった。
「あのさ、高校卒業したら聞こうと思ってたんだけどさ」
「何を?」
「父さんと母さんが離婚した理由」
「…」
今度の沈黙は長かった。
少なくとも僕には長く感じた。
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