父親との会話

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 やがてニヤリと笑った父さんが沈黙を破る。 「高校卒業したら言おうと思ってたんだけどな」 「嘘でしょ」  真面目な話で、悪ふざけのような言い方をするのはいつものことだ。僕はそつなく流した。 「聞きたいか」  僕は素直に頷いた。 「母さんは何も教えてくれないからね」 「もしかして上手くいってないのか?」  怪訝そうな面持ちで尋ねられた。  ここに通っている間、一度も家庭の事は聞かれなかったので驚いた。やはりお互い意図的に話題に出さないようにしていたのだろう。  だから僕はそれを否定した。本当は最近になって思う事ばかりだったが、それは言いたくはなかった。 「そうじゃないよ。それこそ可もなく不可もなくって感じだよ。ただ単純に気になってさ。二人が離婚しなかったら多分ずっと仁のままだっただろうし」 「そうかもな。本当に悪い事をした、お前も巻き込んじまって」 「いいよ。謝られるのも飽きたし」 「けど、名前まで変えたいなんてアイツらしいなぁ。徹底的だ」  父さんは自虐的に笑い、僕は乾いた笑いが出た。  当然母さんは、父さんとっては愛やら何やらがあって結婚した相手なのだろうが、僕には神経質なヒステリーにしか思えない。母に喚かれ、父に説得させられたとはいえ、やはり父さんについて行けばよかったというのは未だに大きな後悔だった。  ともあれ、ここに来てまで母親の話をしたくはないのが本心でもある。長年の疑問が解決されるのを優先したい。 「それで? 高校卒業までは秘密なの?」 「そんな事はないが、説明が難しいな。俺としてみれば、いつの間にか離婚していたような感覚なんだ。言ってみれば、すれ違いってヤツだよ。仕事を頑張り過ぎた」 「けどそれは、僕たちのためじゃない」 「勿論そうなんだけどな。言うほど簡単な話でもないのさ。家にいる時間が…いや優子と話す時間が少なすぎたんだろうな、きっと。仁も滅多に遊びに連れて行ったりしなかった」  しみじみと思い起こして、そんな事を言ってきた。確かに物心ついてから父さんに連れられてどこかに行ったというような記憶は然程ない。 「それにしちゃ、別に嫌いになったりしなかったけどね」 「そうだな。全然遊んでやれなかったのに、偶に一緒にいる時は懐いてくれたよ」 「何でだろう?」 「さあな。頑張ったって上手く歯車が合わない事もあれば、その逆もあるんだろう。今更こんな店開いて時間作ったって仕様がないのにな」  それで話は一旦打ち止めとなった。やけに抽象的な内容だったと思うが、そもそも二人の実子とはいえ、愛だ何だとういものは所詮他人に分かるような領分ではないのだろう。  父さんは「貰うぞ」と言って、僕が手を付けずにいた水を飲んだ。  僕も大して冷めていないコーヒーを飲むと違和感があった。頭の中で反芻していた普段のブレンドコーヒーの味と大分違ったからだ。 「あれ? 何か違う」 「分かるか? 新作なんだけど、味はどうだ?」  すかさず真相を明かされた。断りもなしに試作品を飲まされていた。 「コーヒーの味とかはよく分かんないけど、酸味が濃くって僕は好きかな」 「そうか。なら明日からメニューに乗せよう」 「実験台にしないでよ」 「まあまあ」  そう言って立ち上がり、また引っ込もうとした父さんを僕は制止させた。 「あのさ、もう一つ聞きたいことがあるんだけど」 「うん?」 「僕の名前を考えたのって父さんなんでしょ?」 「ああ、そうだ」 「何で仁って名前を付けたの?」 「うーん、それにも色々と理由があるんだけれど」  考え込みながら、父さんはまた椅子に腰を掛けた。  頭の中で色々と整理しているのか、うんうんと唸っている姿が面白かった。 「仁って文字の成り立ちとか意味とかは知ってるか?」 「いや、全く。けど天皇家がよく使ってるよね」 「ああ、それもあるな。ま、そっちにあやかった訳じゃないけど。仁っていうのはな、思いやりとか思慮深いって意味があるのさ」 「へえ。つまり、そう言う人間になってほしいって事?」  良く聞くような理由だった。きっと最後の命名士との面談でも結局はそういう具合に名前が考えられるのだと思った。 「勿論、そういう意味も込めた。けど元はというとちょっと違うんだよ。犬江親兵衛仁って知ってるか?」 「え? イヌエ…何?」  聞きなれない名前に少し動揺した。 「犬江親兵衛仁」 「いや知らない。昔の侍とか?」 「半分正解だな」 「半分?」 「南総里見八犬伝って本は?」 「何かで聞いたことはあるけど」 「そうか。ちょっと待ってろ」  そう言うと、父さんは止める間もなく店を出て行った。  てっきりものの数分で戻って来るかと思いきや、コーヒーを飲み干すくらいの時間が経ってからようやく帰って来た。 「ほら、これだ」  そして上下巻に分かれた二冊の本を差し出した。 「なにこれ?」 「江戸時代の小説さ。尤も現代語訳だけど」 「この中にイヌエ何とかが出てくるの?」 「ああ、物語の後半は最早主人公だよ」 「ふうん」  いつまでも差し出してきていたので、興味本位で受け取る。パラパラとめくると偶然にも件の人物の名はすぐに見つかった。 「ああ、この人か。この人の名前から取ったんだ」 「俺が『仁』って言葉の意味を知ったのは、これがきっかけって話だ。仁義礼智信の五常って言って、それが備わっていると、より徳のある人間になるっていう儒教の考え方だ。孔子は知ってるだろ? 孔子はこの中で仁が最も大切だと教えてるんだよ」 「へえ」  思っていたよりも壮大な意味合いを込めてつけられた名前なんだなと実感した。けれども、それは父さんの一言ですぐさま霧消した。 「ま、どれもこれも後付けだけどな」 「後付けって…どういう意味?」 「そういう徳のある人間とか、犬江親兵衛仁みたいな豪傑になってほしいとか思って付けたんじゃないって意味だ」 「じゃあ、どうしてさ」 「よく覚えてない」 「はあ? 自分で考えたんでしょ」  何か揶揄われているのかと思った。実際、そう思われても仕方がないほど間の抜けた理由だろう。 「そうなんだけどな」  父さんは急に物々しく、語り始めた。 「仁が生まれた時は、俺は出産に立ち会えなかったんだ。産まれましたって電話で聞かされて、急いで病院に行って。その向かう途中だったか、病院で仁の顔見た時だったか、仁って文字が浮かんだんだ」 「そんな理由?」 「それが一番の理由と言えば理由だな。だから迷ったのは仁にもう一文字か二文字付けるかどうかってのを考えただけで、仁って字を使うのは、俺の中で決定だったんだよ。で、しばらく考えたんだけど結局仁の一文字になった。おしまい」  ニカリと笑って勝手に話が終わってしまった。しかしながら僕は僕で、妙な納得感が芽生えてしまい更に聞くこともしなかった。 「そっか。何かもっと深い意味があるんだと思ってた」 「がっかりか」 「いや特に」 「そっか、良かった」  父さんはテーブルの上の食器類をトレーに乗せると片付け始めた。  そして、カウンターに引っ込むと「軽く食べるだろ」と言ってサンドイッチを作ってくれた。 「ああそうだ、俺も仁に聞きたいことがあるんだ」  ベーコンの焼ける香ばしい香りと共に父さんの声が僕に届く。 「何さ?」 「今まで仁って名前でどうだった? 嫌だったか?」  その質問は、まるでバースデーケーキの蝋燭を吹き消した後のような、静かな寂しさを伴っているように感じた。  それに感化されないうちに、僕は即答する。 「いや、そう思ったことはないよ」 「なら俺は一安心だ」  しばらくして出てきたサンドイッチは、軽食というにはあまりにボリューム満点な大きさだった。
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