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夜風に朧月夜、桜の花びらが風流に水面を流れて左近は上機嫌で陽気に口笛を吹いた。
派手な歌舞伎者の格好に、総髪姿で花街からの帰り道を提灯を光らせて歩いていた。馴染みの遊女と宜しくやって、大門が閉まる前に色町を抜け出した。
「今日はお月さんがきれぇだねぇ。帰って飲み直そうか」
遊女の情男になった左近は『朝までゆっくりしていっておくんなまし』とせがまれたが、今日は気分が乗らなかった。
奇抜な出で立ちで顔は優男、眉をひそめる者も多いが、大金を支払う客は廓の楼主にとっては美味しい客で朝まで手放したくはないと言うもの。
ほろ酔い気分で帰路を急いでいると、柳の下で鼻緒が切れたのか女が座り込んでいた。
隣に夫の姿も無く、提灯も持たずに夜道を女が一人でいるなんてお上に罰せられても仕方ないような無用心さだ。
「其処の娘さん、どうしたんだい。って……ありゃ、柳の幽霊、じゃない……南蛮の娘かい?」
女は銀の長い髪を垂らして白地に黒の波紋のような着物を着ている。ぎょっとして女を見たが、提灯の明かりに照らされた娘は大変器量が良かった。
妖怪か、はたまた幽霊かと思ったが好色な左近はこれは興味深い、あやかしの女と同衾したとなれば酒の肴になるぞ、と不埒な考えが頭をよぎる。
娘は言葉が通じないのか、じっと左近を見つめるだけだ。
「…………」
「なんだい、あんた。口が聞けねぇのかい? それとも俺の言葉がわからないのかい。仕方ないねぇ」
左近は娘の反応に苦笑し、鼻緒を直してやると花開くような微笑みを浮かべた。言葉は話せないようだったが華やかな笑顔に左近は少々たじろぐ。
「こんな遅い時間に、なんだってぇ若い女が一人暗い夜道を歩いてるんで? 人攫いにあっても文句は言えないよ」
「…………」
女は微笑むだけで、答えない。
ひょっとするとこの娘、ちょいとネジが緩んでいるのかも知れないとも思ったが、無邪気な微笑みを見ると、どうしたものかと頭を抱えこむ。
「あんた、俺の屋敷に来るかい? こんな所に居たら危ない。朝になったら家まで送ってやるよ」
「…………」
貧乏旗本の次男坊、お家に厄介者として居候している身だが、この夜道を女一人で行かせる訳にもいかない。
娘は微笑むと、深く頷いたので女を屋敷に連れて帰る事にした。
✤✤✤
とうに家人は寝静まり、暗くなった屋敷にこの面妖な娘を通した。女中が目覚める前に屋敷を出れば勘付かれることも無いだろう。
行灯に明かりを灯し、薄暗い座敷の中で女がぼんやりと光っている。
飲みすぎたせいで、女が蛍みたいに輝いて見えるのか。女は口が聞けず、夜桜を見ながら静かに二人は晩酌していると、女が寄りかかるように擦り寄ってきた。
「あんた、名前は何て言うのか知らねぇが、見ず知らずの男の屋敷についてきて、俺を誘うなんて大胆な女だねぇ」
女の呼吸音と、酒で体温が上がった肌から香る伽羅のような匂いが左近の欲情を焚き付けた。
無邪気なのか、したたかに男を誘っているのか分からないが、先ほどまで馴染みの遊女と褥を共にしたと言うのに、この女と同衾してみたいと思った。
「名前が呼べねぇのは不便だねぇ。そうだなぁ、あんたを見てると蝶を思い出す、紋白、いや揚羽……翅を上げた蝶みたいだから、揚羽でいいや」
「…………」
そう言うと左近は、名前に満足してすり寄ってくる揚羽の体を畳に押し付けた。
激しく貪り合い、呼吸を乱す女の体に腕を絡めた左近は、行きずりの相手に情が湧いている事に驚いた。
出逢ったばかりの女なのに、何故か心地よく安心感がある。
「あんた……、どこに住んでいるか知らないが、また俺と会ってくれねぇか」
「…………」
揚羽は探るように左近を見ると、猫のように自分の胸元に擦り寄ってきた。それは口が聞けない女の返答だと思い、彼女を抱擁すると安心したように眠りについた。
✤✤✤
桜の花びらが左近の頬に落ちて、それを指に掴むとようやく目覚めた。
「揚羽?」
あの儚げな女の姿はどこにも無い。
どこから入ってきたのか、小さな紋白蝶が旋回すると、花吹雪の中を飛んで消えていった。
左近はそれを何故か物悲しい気持ちで見守り、心のなかにぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われながら、満開の桜をしばらく魂が抜けたように眺めていた。
そしてふと視線を落とすと、そこに文が置かれていることに気付いて指を伸ばした。
「書き置きか」
――――左近様。
私は先日、蜘蛛の巣にかかっていた所を助けて頂いた紋白蝶でございます。
私の寿命は残り少なく、最後の力を振り絞って貴方様の元へと向かい人間の姿に变化して、このご恩を返しに来ました。
言葉は話せずとも、左近様のお気持ちは嬉しゅう御座いました。
一晩だけでも、左近様と恋心を通じ合わせる事ができて揚羽は幸せでした。
いつか、私が人間に生まれ変わったら左近様と夫婦になりたい。
「桜の花みてぇに儚く散ってしまって……そりゃあねぇよ、揚羽。俺の気持ちまであの世に持って行っちまって」
女の冗談とは思えない。
哀れと思って蜘蛛の巣に引っかかった紋白蝶を助けた事を、他人が知るはずもなく左近は惚れた女を思うように涙を流した。
春の夢の如し【完】
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