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君はあの人に似ていた。
花の様に優しく微笑む君。
君に出会ったのは一週間前。
**
「これ、落ちましたよ!」
すみれ色のハンカチを拾い上げ、車椅子の君へと差し出すと優しく微笑んだ。
その笑顔が死んだ妻と瓜二つだった。
〝美花子〟さんという名前で、同じ70代ぐらいの女性だった。彼女も夫をだいぶ前に亡くしていたのだ。少し話しただけで気が合うのが分かった。
その日から毎日、彼女に会いに行った。
彼女はガーベラが好きと言っていたから、色とりどりの花束にして贈る事にした。
「わぁ、キレイ!ありがとう!」
その笑顔を見れる、それだけで幸福だった。
わざとジョークを言ったり、お笑いの話なんかをして笑わせた。口下手な自分が変わっていく様で不思議だった。
小さな口に手を当てながら、ふふふと和やかに笑う顔が可愛いらしかった。
また今日もガーベラを持って、冷たい廊下を歩き扉をノックした。返事を待つ間に髪を整えたり、服の皺を伸ばしたりした。
「はーーい、どうぞ」
声を聞くだけで花束を持つ手に汗が滲んだ。その手のひらをズボンで拭い、扉を引いた。
「今日もありがとう。お花は毎日いらないわ。もったいないから」
「いいんですよ。昨日のは僕が持って帰りますから。毎日あなたに贈るのが幸せなんです」
「あら、やだ」
痩せこけた頬を、桃色に染めながらまた笑う。
つられて笑う僕の心も、桃色に染まる。
とっくに気付いているこれは……恋だ。
そんなものはとっくに置き忘れて、埃も被っていたはずなのに……君に出会ってからどこかから這い出てきたんだ。
普段は緩やかな心臓が、君を前にするとドクドクと必死に動き出す。
「私ね、もうすぐ死ぬの」
彼女は遠い目をして青空の見える窓辺を見つめた。飛べない鳥が遥かな未来を夢見るような瞳で。
そんな予感はしていた。でも、彼女にはいつも花の様に笑っていて欲しい。
「今日は風が気持ちいいですよ。外に散歩に行きませんか?」
「はい」
彼女の細い背中を眺めながら車輪を押していく。僕のくだらない話に振り向いたり、肩を揺らしながら笑う。
中庭には大きな桜の木が立っていて、そこの根元に寝ころびたいと彼女は言った。抱き締める様に抱えながら根元へ下ろしてあげた。
子供の様に地面に寝転び、桜の木を見上げる。少しだけ暖かくなった風が芽吹いた枝を揺らすと、彼女が口を開いた。
「あなたと桜を見たかったわ」
「見れますよ、一緒に見ましょう」
「……見れたらいいわね」
塞ぎ込んだ目元からは涙が滲んで溢れ出そうだ。そんなに遠い目をしないでくれ。きっと大丈夫だよ。
僕は小枝みたいな腕を握り、なぞる様に手のひらを重ね合わせた。
「美花子さんが好きです」
「あら、ありがとう。私も豊さんが好きよ」
「もう少し、早く出会えたら良かったわね……」
隣に寝そべる横顔は赤く染まっていたが、頬は朝露の様に濡れていた。僕はそれを拭ってあげ、皺々の手の甲に唇を寄せた。
びっくりして丸くなった瞳には、僕と小さな蕾だけが写り込んでいた。
今日もお尻にガーベラを隠しながら、彼女の部屋を目指して長い廊下を歩いていた。
彼女の部屋の前を看護師さんがバタバタしていた。まさか、まさか……
ノックする事なく、扉を引いた。
そこには透明な酸素マスクをはめた彼女が寝ていた。今日の顔は血色が良くない。近寄って手を握り締め、名前を呼んだ。目だけで微笑み、手のひらを握り返してくれた。
「今夜がヤマです」
お医者さんはそう告げた。分かってはいたけれど、涙は止まらなかった。
もう少しだけ一緒に居たい。
もう少しだけその笑顔を見たい。
もう少しだけ恋をしていたかった。
もう少しだけ早く、君と出会いたかった。
持ってきた花束を見せるとまた喜んでくれた。
ガーベラが好きな彼女。見てると元気が貰えるから好き、と言っていた。だから、毎日元気になれる様に新しく取り替えていたんだよ。
あなたが元気になれるようにと。
彼女は透明なマスクを外し、パクパクと口を動かした。それを聞き取る様に耳を寄せた。
〝キス して〟
可愛い人だなと思い、乾いた唇にキスを贈った。
もし、神様がいるとしたら……
僕の寿命を彼女にあげて欲しい。
少しでも彼女が生きれる様に。
あの時見た蕾の様な生命の息吹を……
どうか彼女にお与え下さい。
次の日、花束を持って廊下を駆け抜けていた。
愛らしい花の笑顔を思い浮かべながら。
扉を引くと、マスクを外した彼女が寝ていた。
……まさか、間に合わなかったか?
花束を置き、必死に手のひらを握り締める。
温かいぬくもりを感じる。
花が開くように瞼がゆっくりと開く。
「また、会えたわね」
彼女の笑顔が目の前に咲き誇る。
君と一緒にあの桜を見に行こう。
君の頬の様にピンク色で、それはそれは美しいだろう。
君の笑顔には負けるだろうけどね。
そして来年も再来年も、もっとたくさんの桜を見に行こう。
一緒に寄り添って、手を取り合って。
大好きな君とこれからも生きていこう。
ガーベラの花言葉、
それは——〝希望〟。
*end*
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