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15話
牟田は近所の住人を装い警察に電話した後、タクシーを1台手配した。
その意味を三好に問われ、
「こういう時、親子は一緒にいない方がいい。…母親から、一旦子供を離してやりたい。」
牟田は、いつもより低い声で答えた。
それは子供のためか、母親のためか。
そう問いかけて、しかし三好は口にしなかった。
※ ※ ※
井上宅付近に車が到着した時には、時計は午後六時を回っていた。
清閑な住宅街は既に薄暗く、人通りもまばら。
井上宅はそんな住宅街の角、明確に分けられた区画の最奥に位置した。その家の裏側には大きめの公園がある。
車を公園脇に路上駐車して、牟田と三好は急ぎ下車した。そのまま駆け出す。
そして家の前にたどり着いた瞬間から微かな男の怒号が耳に入った。
確かに家の前まで来なければ聞こえないが、聞こえてしまうとその異様さに眉根が寄る。
「牟田さんっ、」
その時、井上宅の玄関脇でしゃがみこんでいた影が動いた。朋美だった。
朋美は牟田を見つけると転がるように駆け寄り、牟田のヨレヨレのスーツの袖を掴む。
「早くっ、助けてっ、」
いつからここでこの修羅場を聞いていたのか知れないが、牟田の袖を掴む手は震えていた。
牟田はその手をそっと剥がし、共に居た三好が朋美の肩を抱き寄せる。
「子供は、…こんな場面、見ては駄目だ。これは大人が対応しなくちゃならない。それが大人の務めだからね。」
牟田は朋美の頭をポンポンと軽く叩いて薄く微笑む。
そして牟田は足早に井上宅の玄関に歩み寄ると、人差し指でインターホンを軽く押した。
「………」
すると響いていた怒号がぴたりと止む。
だがインターホンは反応しない。
牟田は迷うことなくもう一度インターホンを押した。
「ごめんください。」
そして玄関扉越しに気持ち大きめの声で呼び掛けた。すると何者かが駆けてくる音と、それを止める男の声が同時に響き、玄関扉がガチャガチャと微かに震えた。慌てて鍵を開けようとしている。それを察して牟田はドアノブを掴んだ。
「……!」
ガチャリと解錠した音と共にドアノブを引く。
そのまま勢いよく玄関扉を引き開けると、若い女の子が転がり出てきた。
色素が薄いのか茶色く染めているのか、明るい毛色の少女は気の強そうな瞳を潤ませ一瞬牟田を見上げた。目が合う。
牟田は反射的に転けそうになるその少女の腕を掴み、
「三好さんっ!この子を頼む!」
背後の三好は牟田の声とほぼ同じタイミングで少女に駆け寄った。牟田は三好に少女を引き渡すと、玄関に一歩踏み込む。
途端に他人の家特有の匂いが鼻をついた。
きれいに整えられた玄関には花が飾られ、その脇には立派なゴルフバックが鎮座する。
牟田はそれを横目でちらりと見遣りつつ、
「ごめんください、井上さん、いらっしゃいますか?」
再び室内へ向けて声をかけた。
「どなたですか。勝手に入られては迷惑だ。」
伺っていたのだろう。すぐさま奥から現れたのは恰幅のよい男。上背もあり、目が鋭く高圧的だった。
しかも休日の一時にしては身形がきちんとしており、ポロシャツの上にジャケットを羽織り、スラックスにはアイロン目がついている。
(家でくつろぐにしてはずいぶん窮屈な格好だな。)
自堕落な牟田はそんな眼差しで、顎をあげてゆっくり歩み寄る男を見据えた。
「勝手に玄関開けて入ってくるとは無礼だろう。警察を呼ぶぞ。」
男は牟田の目の前に立つと腕を組み、顎をあげたまま告げる。悪びれる様子は欠片もない。
「申し訳ありません。通りがかりに大きな声が聞こえたもので、お節介とは思いましたが声をかけさせてもらいました。」
「今時君は他人の家の物音にいちいち反応して、玄関にまで入り込むのか?まるで異常者だな。普通の人間はそんなことはしないぞ。」
「まあ普通はそうですね。でもあまりにも外部に漏れたご主人さんの声が聞くに耐えないものでしたので、さすがに看過できないと思いまして。」
「はあ?普通の夫婦喧嘩だろ。そんなものにいちいち首を突っ込む方がどうかしている。頭がいかれてるんじゃないのか?」
男は高圧的な態度を崩さず、己の非を認めることはない。ここが自身の家であること、自分が主であることが、男をより傲慢にさせていた。
「出ていけ。さもなくば不法侵入で警察を呼ぶぞ。」
「どうぞどうぞ。既にこちらも手配してますから」
「なんだと!どういうことだ!」
警察を呼んだことを知るや否や、男は顔を真っ赤に染めて激昂した。口角から唾が溢れ白く滲む。
「我々一般市民は虐待を通報する義務がありますからね。あのような怒号を聞かされることも、…母親が殴られることも、子供にとっては見ても聞いても虐待になる。」
「いい加減にしろ!プライバシーの侵害だろ!」
感情を露に唾を飛ばす男を前に、牟田はその顔から笑みを消し去った。
「プライバシーの侵害は、私事を他人が故意に公開した場合に適用になります。あなたは自ら大声で私事を公開しておられた。プライバシーの侵害には当たりませんよ。」
告げながら牟田は、男の後ろからそっと姿を現す井上を見た。
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