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プロローグ
ここに戻ってきてしばらく経つと僕という存在は次々に起こる話題性のある様々な出来事の波に呑み込まれ、いつしか風化していった。忘却が人類だけに与えられた特権であるかのように。恐らく人類の歴史もこんな風に思いの外簡単に風化していき、この星にたくさんの寂しさや憎しみ、憧れと悲しみ、そして優しさや希望を降り積もらせてきたのだろう。
あれからどのくらいの時間を過ごしてきたのだろうか。僕はもう自分がどのくらい生きているのかまるで分からなくなっていた。生きた年数を数えることにはもう何の意味もなくなっていた。それだけの悠久の時の中を僕はもう生きている。
いつかどこかの交差点で僕は一人の少女を見かけた。初対面のはずのその少女からは、不思議と懐かしい香りがした。でもそれがどうしてなのかは分からない。その記憶すらも僕の中に、そしてこの星の上に降り積もった一かけらの遠い記憶、いや思い出なのかもしれない。
すれ違いざまに思わず振り返ると、少女もまた振り返って僕のことを見ていた。そして少女はにこりと微笑んだ。とても遠い目をしていた。しかしまたとても綺麗な澄んだ目をしていた。それはまるでようやくこの時を迎えられたことに安心しているかのような表情だった。まるでこの瞬間を幾星霜も待ち焦がれていたかのように。
僕も思わず微笑み返す。そうすべきだと頭の中で判断する前に反射的に自然と微笑みを浮かべてしまっていた。まるでそういう風に太古の昔からプログラムされているようだった。それは自分の意思であり同時に自分の意思ではなかった。だがそこには何の気持ち悪さも嫌悪感もなかった。そうすることが僕の長年の願いであり今まで生きてきた意味だった。またそれは少女の願いでもあったのだ。そこには紛れもなく何物にも犯すことのできない崇高な真実ととめどない愛情があった。
本当にここまでとても長かった。僕は少しずつ少女に歩み寄る。少女は少しも動くことなく静かに僕が近付くのを待っていた。この一歩一歩が僕と少女の時間を繋げていき、僕たちを時間の海から引き揚げた。
そして僕は少女に向かって笑いかけた。そう、ただ一言。
「おかえり、僕のアリス」
少女は泣きそうに微笑んだ。
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