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01.探偵の心得
窓際には陽炎がにじんでいた。
瀬理探偵事務所のわずかに開いた窓から、陽に熱された生暖かい風が吹き込んでくる。
ダークブラウンのデスク上にある資料が、時折はらりとめくれてはパサリと落ち着く。そんな動きを繰り返している。
しかし、かすかな風は部屋のなかまで届かず、事務所にはねっとりとした空気が停滞していた。
中葉一樹の頬をたらりと汗が垂れた。
部屋の中央のソファーに腰掛け、手元のうちわでハタハタあおぐ。
こんなに暑いなら、気を利かせてアイスの一つでも買ってくればよかったな、と彼は思った。
「──ごめんね、クーラー壊れちゃって。修理の業者さん、明日になるんだって」
ちょっと待っててね、そう言ったきり水雲鈴音──リンネは、奥の部屋に引っ込んでいった。
それが先ほどのことで、今でも部屋の奥からゴソゴソとした物音が聞こえてくる。
ラジオから流れてくる軽快なジャズ音楽に紛れて、時折ガンと何かがぶつかる音が響いてきた。
一樹はもう何度目か分からないが、物音がする部屋の方を見て頬を掻いた。
何もしないで待っているのも落ち着かない。何か手伝ったほうがいいかもしれない。
そう思った矢先、リンネが部屋の奥から出てきた。
ひと昔前の無骨な扇風機を重そうに引っさげていた。
「言ってくれれば手を貸したのに」
なんだかちょっとバツが悪い。一樹はゆるりと立ち上がった。
「こんな汚いところ、新人くんには見せられないよ」
そう言いながら、リンネはテキパキと雑巾で埃のかぶった扇風機を拭き上げる。
一樹は所在なげに、再びソファーに腰掛けた。
しばらくして使えるようになったと思ったのか、リンネは薄汚れた電源プラグをコンセントに挿し込んだ。
カチリと扇風機のボタンを押すと、ガガガガと耳障りな音がした。不快な金属音を鳴らしながら、しなびた扇風機が動き出す。
「おお、動いた。腐っても扇風機だね」
リンネが満足げにひどい感想を述べた。
「……それ、大丈夫か? フタ外れて、プロペラ飛んでいかない?」
想像した惨事はなかなかシュールだった。ただよくよく考えれば、風を押し出しているぶん、プロペラは本体側に押されているため、おそらくその心配は不要だろう。
「まぁ大丈夫でしょ。首回るかな?」
リンネが後ろのボタンを押すと、ソファーのかたわらで扇風機がゆっくりと首を振り始めた。ささやかな風が肌の生毛を撫でて心地がいい。
探偵事務所に染み付いたかすかなタバコの匂いが、鼻腔をかすめた。
ふと、この事務所の居候だという男の姿が浮かんだ。
「今日狩野さんは居ないんだな」
そう言うと、扇風機の真ん前で顔に風を浴びていたリンネが振り返った。
何故か少し拗ねたような顔をしていた。
さきほどまで扇風機と格闘していたから暑いのだろう。前髪が風に押されて逆立っていた。
「『このくそ暑いなか、冷房なしでやっていけるかバカ野郎ー!』って、半ば発狂しながらどこかに出掛けちゃった。だから私は、この暑いなかお留守番だよ」
臨場感をもって狩野の真似をしたリンネは、最後にもうと肩をすくめた。
それほど狩野と付き合いがあるわけでは無いが、ありありとその光景が浮かぶほどには上手い。軽く怨嗟の念が滲んでいる気さえする。
「はは、大変だな」
狩野は今頃どこかで涼んでいるのだろうか。煙草をふかしながらパチンコ屋で時間を潰している──完全に想像だが、いかにも似合いそうだ。
リンネが扇風機の前から立ち上がった。
そのまま流し台で手を洗い、冷蔵庫を開けたかと思うと、トレイを持って戻ってきた。
「お待たせ」
トレイの上にはウーロン茶の入ったコップが二つ載っていた。氷がそこそこ入っていて冷えていそうだ。
「なんか悪いな。俺もう客人じゃないから、そんなに気を使わなくてもいいのに」
「ううん。習慣みたいなものだから気にしないで」
リンネは柔らかく笑った。
トンと目の前にウーロン茶が置かれた。
リンネは対面のソファーに座り、早速冷えたお茶を一口飲むと、軽く咳払いをした。
「とんだトラブルがあって遅くなっちゃったけど」
ふとリンネは真剣な表情を浮かべて一樹を見据えた。
「本題に入りましょうか」
一樹は頷いた。
カランと、氷が小気味のいい音を鳴らした。
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