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◆
数年が経ち、彼女は海を出た。彼との命を繋ぐために。
彼女は母になっていた。大きく膨らませたお腹を抱えて川を上る。顔に勢いよく当たる淡水は厳しくも懐かしさを感じた。
しばらく行くと見慣れた景色が見えてきた。時が経ち木々は大きく育っていたが、故郷を忘れるわけがない。そこで彼女は一度止まり、顔を上げる。
生まれたばかりの時に見た光景が重なった。
快晴の空。
一匹の大きなクマがそこにいた。
◆
「私はあの時助けていただいたシャケです」
「え、あの時の……?」
シャケは川辺に座るクマを見る。身体は大きくなっていたが、その目は間違いなくあの時のクマだ。
彼女にはずっと伝えたいことがあった。
「クマさん」
色々なことがあった。苦しいことも辛いこともあった。その分幸せなことも沢山あった。
知らない場所を知った。信じてくれる相手にも出会えた。今、自分の中に新たな命も宿っている。
運命がどうであれ、生きていてよかったと心から思う。
「私に美しい世界を見せてくれてありがとうございました」
クマは真ん丸な瞳で、水中から礼を述べるシャケを見た。
「じゃあさ、もっと見てみない?」
「え?」
クマは川に入る。今の彼にとっては浅い川だ。そしてクマはシャケを優しく咥えると、勢いよく頭を振り上げた。
ざばっと身体から水が剝ぎ取られ、視界が一気に広がる。
シャケはその日、生まれてはじめて空を飛んだ。
「晴れてる空が好きなんだ」
「……ええ、とても綺麗です」
宙を飛んでいる数秒の間、シャケはどこまでも広がる青空と大地を目と心に焼き付けた。
◆
この伝説は偶然その場に居合わせた狩人によって広く語られ、感銘を受けた木彫り職人は自身の技術を尽くして形を与えた。
その『木彫り熊』はお礼の品として評判となり、舞台である北の地では今も地元土産として人気を博している。
(了)
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