1章

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でもここで急に謝ったら変にならないだろうか。彼女はいま頑張って何事もなかったような雰囲気を作ってくれてるのかもしれないじゃないか。それを僕のいきなりの謝罪でこの空気を壊してしまうのは良くないぞ。 うん、良くない。 「もう、時間じゃない?」 ごちゃごちゃ考えているうちに家を出る時間になってしまった。 「あ、うん。もう行かなくちゃ。美味しかった、ご馳走様」 僕は慌ててかばんを背負って玄関を出る。その間も彼女はずっと微笑んでいた。 結局肝心なことは何も言えなかったことを悔いながら歩きだしたところで、忘れ物をしていることに気付いた。仕事で使うUSBメモリーだ。昨日着ていたジャケットの内ポケットに入れたままなのをすっかり忘れていた。 僕は急いでエレベーターで5階まで戻った。素早く玄関を開けて部屋に入ると、アキの姿が見えない。 トイレかな? と思い、「忘れ物取りに来ただけだよ」と、声を掛けながらクローゼットを開けた。他のジャケットをよけて目当てのものを探していると何だか、視線を感じる気がした。 それも下の方から。 僕はゆっくり視線を足元に移動させる。 長い爪が何かを掴んでいるのが見えた――顔だ。 アキの顔はこちらを向いたまま引きずられて、クローゼットの闇の中に消えていった。
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