月と恋々

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 裏の路地を黙々と歩きながら、カコはふと故郷のことを思った。カコの家は貧しい農家で、兄弟がたくさんいた。皆毎日朝から晩までへとへとになるまで働いていて、身体が弱く仕事の役に立たないカコは一生懸命幼い弟の世話をした。口べらしのために売られたのは、カコが考えていたよりも随分と早い時期だったように思う。 「おっかあ、おっとう、にいちゃんたち、サト。元気にしてるかな」  時々、弟のサトの紅葉みたいな掌と、一緒の布団で眠ると全身ぽかぽかと温かかったことを思い出す。あそこでは今よりも随分薄っぺらい布団で寝ていたのに、不思議と思い出の中の布団の方が温かかった。  しかし、会いたいとは言わない。ここに売られた時、カコは幼いながらに自分が家族に捨てられたのだということに気付いた。両親がいったいどんな気持ちでカコを手放したのか、兄たちは何も言わなかったのか、本当にそれしか方法がなかったのか。そんなことは、カコには一生分からないことだ。ただ、自分はあの家にいてはいけない、そうなると、まだ幼いカコの帰る場所はもうどこにもなかった。 ▽   花街の最奥、人も疎らな場所にひっそりとその古井戸はあった。  ここに来たばかりの頃、この井戸に花街から逃げ出そうとした女郎が沈められて殺されたのだという話を何度も聞かされた。一人で水を汲みに行くカコを怖がらせようとした女達が、手を変え品を変えては話して聞かせたのだ。その話を聞いた時、カコはそんな井戸の水を使うだなんてここの人達はどうかしていると震え上がった。しかし不思議なことに、最初はどんなに嫌悪感を持っていようとも、時間が経てば人間は慣れる。それに、何を思ったところで女達の言いつけを守るためにはここの井戸から水を汲み上げるしかないのだ。  覗き込んだ井戸の中はひんやりした空気に満たされていて、底はもちろん暗くて見えない。暗闇の奥底から時折反響するぴちょんぴちょんという音が、ここには水が湧き出ているのだと静かに主張していた。  カコは鳥肌を立てながら、なるべく中を見ないようにして井戸端にぶら下がっている蔓のついた桶を放り込んだ。随分遠くの方でばしゃん、と水音がする。  カコは、この水の入った桶を井戸の中から引き上げる作業が一番怖かった。桶と一緒に何か変なものまで引き上げてしまったらと思うとたまらない。井戸から人の頭が覗くさまを想像しそうになっては慌てて振り払った。    何も出てきませんように、何事もなく水汲みを終わらせられますように。  そう祈りながら手の痛みも忘れて必死に蔓を引っぱって桶を引き上げていると、突然背後からにゅっと手が伸びてきた。驚いて悲鳴をあげ手を離してしまうと、その手はカコの代わりに慌てたように蔓を掴んだ。 「すまん、驚かせたな」  地面に座り込んでしまったカコの頭の上に、低く深い声が降ってくる。聞いたことのない、染み入るように耳障りの良い声だ。カコは、恐る恐るその声と手の主を見上げた。  それはかなり上背のある男だった。濃紺の着流し姿だが、髪は短く断髪されている。きりっと上がった眉が凛々しく、その涼しげな目元とすっと通った鼻筋に見惚れていると、鍛え抜かれているのだろうがっしりした腕が危なげなく桶を引き上げた。 「水を汲みに来たのか?」  呆気にとられてしまっているカコはただぽかんと口を開くだけで何も答えられない。男はそんなカコをじっと見下ろして、足元にあった桶に水を流し入れる。そしてもう一度井戸から水を汲み上げ、もう片方の桶にも勝手に水を入れた。それらをひょいと肩に担いだかと思うと、突然すたすたと歩き出す。 「どこの店だ?」  水を運ぼうとしてくれていると気付いたカコは、慌ててその男を追いかけた。堂々と道の真ん中を歩いていこうとする男を止めようとまとわりつく。 「なんだ、どうした」  戸惑いつつも足を止めてくれた男に何と言ったものか悩んでいると、男は一度両肩の桶を地面の下ろし、突然カコの両脇に手を突っ込んだ。ひょいと男の頭上まで持ち上げられ、急に高くなった視界に思わずまた悲鳴が漏れる。男はまじまじとカコの顔を見て、少しバツの悪そうな顔をした。 「お、お、おろして、くださ、い」  震える声でそう懇願すると、男は驚いたように目を丸くした。 「なんだ、話せるのか」 「み、み、みず、うちが、はこびます」  ようやく地面に足を付けることができ、カコはよたよたと水桶の方へ向かった。 「だが、おまえには重いだろう」 「う、うちの仕事、ですから」  ようやく取り戻した桶を肩に担ごうとするも、それはまたすぐに男の手の中に奪われた。 「では店の近くまで運ぼう」 「あの、お、お、おこられます」 「店の連中に気付かれなければいいんだろう」  カコは生まれてこのかた、こんな風に強引に世話を焼かれたことがない。それ故にどう対処したものかまるで思い浮かばず、悩みに悩んだ。そして結局、この時刻は店の裏の道を通らなければならないことを話した。 「いつもここを通っているのか」 「はい」 「何故?」 「あの、この時間は人が多いので」  男は両肩に桶を下げながら、狭い路地をすいすいと歩いていく。カコはただはらはらしながらその広い背中を追いかけることしかできない。 「人が嫌いか?」 「あ、う、いいえ」 「では人が怖いか」 「あ・・・・・・よく、分からないので」 「そうか」  男は振り返ることなく、まるでよくよく知っているかのように迷わず路地を進んでいく。一見さんではなさそうだと考えていると、男がまた口を開いた。 「俺もだ」 「えっ?」 「誰しも、よく分からないものは怖いさ」  カコは驚いて一瞬息を止めた。 「・・・・・・旦那様、は」  すると初めて男が笑う気配がした。 「その呼び方はやめてくれ。俺はコウという、おまえの名は?」 「・・・・・・イチ、です」 「イチか」  少し後ろを振り向いた彼の横顔が完璧な比率で微笑む。カコはその艶やかさに思わず見惚れた。こんなに美しい人を目にするのは生まれて初めてで、いちいち感動して目を奪われてしまう。 「扇屋といえばこの辺りだったか」  その声にはっと我に返ったカコは慌てて男に頭を下げた。 「あ、ありがとうございました」 「いい、俺が勝手にしたことだ」 「・・・・・・コウさまは、お客様ではないのですか?」 「客ではないな。しかし、女を求めてここにいることに変わりはない」  僅かに口端を吊り上げてそんなことを言うコウに、カコは少しだけ落胆した。こんな男前を、女達が放っておくはずがないのだ。簡素な成りをしているがその魅力は曇ることなく、むしろ一層彼の魅力を引き立てていた。 「そろそろ行く。おまえも早く戻れ」 「は、はい」  桶を受け取ろうとして、しかしもうこの美しい人とはもう二度と会えないかもしれないと思うと、カコの動きが止まる。 「どうした?」 「・・・・・・また、お会いできますか?」  勇気を振り絞ってそんなことを言うと、男はいくつか瞬きをした後、きゅっと目を細めて微笑んだ。 「ああ、また」  店に戻ると、案の定遅いと怒られた。カコはなんだか頭がふわふわしていて、そのせいでいつもよりきつく叱責されてしまった。つらく感じるはずの冷たい扱いも、何故か今日ばかりは気にならなかった。  また、あの美しい人に会えるだろうか。  たとえあれが夢でも夢でなくても、宝物みたいな時間だったことに変わりはない。カコは胸を躍らせながら、夢見心地のまま日常の中へと紛れ込んでいった。
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