月と恋々

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「これは違うて言うたやろ、なんで分からへんのや! それとも、これが似合いやとでも言いたいんか!」  かっと床に投げつけられた簪が跳ね返り、手を付いて頭を下げているカコの腕のあたりに当たる。烈火のごとく怒り狂う少女は、床に這い蹲っているカコを扇で容赦なく殴打した。 「も、もうわけありません、もうしわけありません」  必死に謝っていると、最後にがっと髪を掴んで引っ張られ、そのまま床に投げ出される。 「もうええ、あんたはほんまに何の役にも立たへん。もう声も聞きたないから、はよ黙ってくれる?」  吊り上がった目が、憎しみに近い感情を込めてカコを睨め付ける。カコは震えながら唇を噛み締め、平伏し続けた。 「あんたみたいな出来損ないが生きてられるんは姐さん方のおかげや、それを忘れるんやないで」  葵、というのはカコと同じ天神の元で世話になっている、カコより少し年上の少女だ。気性が激しく短気で、カコはここの女主人の次にこの葵のことが苦手だった。  何でも、カコのやることなすこと全てが気に食わないらしい。気が合わないと言ってしまえばそれまでだが、下っ端のカコに葵を避ける手段などない。ただ毎日怯えながらその場をやり過ごすことしかできなかった。 「その辺にしよし、みっともない」 「けど、また姐さんの」 「黙り。もう聞き飽きたわ」  明里天神は、この扇屋でも指折りの美人だ。彼女と一夜を共にするためには相当の金銭が必要になるともっぱらの噂で、この店で一番人気の天神だった。 「イチ、あんたもええ加減、賢う動き」 「も、もうしわけありません」  葵はそれっきり鏡を覗き込んで化粧に集中してしまった明里天神に一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに恐ろしい顔でカコを睨み付けた。 「姐さん、そしたら代わりに葵が行ってきます」 「ええからはよ行ってきよし」 「行ってまいります」  カコは目を伏せたまま隣を通り過ぎる葵をやり過ごし、か細い声で明里天神に声を掛けた。 「ねえさん、うちに何かお手伝いできることはありますか」 「今はないから、そこで座って見とき」  カコは大人しく部屋の隅っこに正座をしながら、鏡の中の美しい明里天神の姿に見惚れた。きりっと結い上げられた髪を鼈甲の簪や飾り紐が彩り、襟元から覗く白くなだらかなうなじは匂い立つような大人の色気を放っている。きっと、きっとこんな女の人のことを、あの人も好きになるに違いない。カコはそこまで考えて、ちくっと胸が痛むのを感じた。  あれからどこででも目を凝らして探しているのだが、カコはコウを見つけられていなかった。幸か不幸かあれから古井戸に行かされることもなく、外に出る機会があまりなかった。別に彼とどうこうなりたいというわけではなく、ただ一目、もう一度だけ会いたかった。 「今日は葵がつくから、あんたは他のとこ手伝い」 「わ、分かりました」 「……イチ」 「はいっ」  明里天神は身だしなみを整える手を止めることなく、鏡の中から視線だけを一瞬カコの方へ向けた。 「何で葵にああも怒られるか分かってるか?」  カコは言葉に詰まって俯いた。嫌われているから、苛つかせてしまうから、自分が出来損ないだから。思い浮かぶことはいくつもあるが、そのどれもが彼女の求めている答えとは違う気がして口には出さない。ただ、どんなきついことを言われるのだろうと身構える。 「分かってるんか? 分かってないんか?」 「わ、分かりません、もうしわけありません」  きつい口調に縮こまるカコにため息をついて、明里天神は口紅の入った小さな器を手にした。筆で紅を引き、仕上げに懐紙をその花びらのような唇で挟む。一連の流れにまた見惚れていたカコは、もうええからはよ行きとその場を離れることを許された。  明里天神は、時折カコには答えられないような質問をして、到底カコが持っていないような答えを求める時がある。そういう時、いつものカコなら上手く答えられない自分が情けなくてたまらなくなる。しかし、逃げるように部屋を出たカコは、やっぱり人間はよく分からないなあと、コウのことを思い浮かべながら思った。コウのことを思うと、いつもの痛みが少しだけ和らいだ気がした。
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