月と恋々

4/11
前へ
/11ページ
次へ
「おい、そこの。おい、おまえ! これを座敷の近くまで持っていってくれ」  ぼんやりしてしまっていたカコは、半ば押しつけるように手渡された酒の載った膳を持って長い廊下を歩いていた。  明里天神についてこの揚屋に足を運んだカコは、ずらっと立ち並ぶ障子とその雰囲気に圧倒されていた。硝子が触れ合う音、三味線の音、酌をする女達の静かな声などが障子越しに漏れ出して耳に飛び込んでくる。時折酒で上機嫌になった男の野太い声が突き抜けてきて、いずれは自分もこんな雰囲気のところで客の相手をしなければならない時が来るのかと思うと今から憂鬱だった。  明里天神がいる座敷の近くまで来た時、きゅっと目の吊り上がった女が近付いてきてカコの持つ膳をぱっと取り上げた。そして戻れと言わんばかりにカコに強い目を向け、障子の方へとしずしずと歩いて行った。床に膝をつき笑みを貼り付けて中へ声を掛けた女は、丁寧な仕草で障子を開ける。  その時に部屋の中がちらっと見え、カコは思わずはっと息を呑んだ。そこには前見た時と同じ、濃紺の着流しを着たコウが杯を片手に明里天神と並んでいた。障子はすぐに閉ざされてしまったが、カコはまるで取り憑かれたようにそこから動けなかった。喜びと悲しみが同時に襲ってきて、自分でも自分の感情がよく分からなかった。目に映った二人が余りにも絵になっていて、カコには少し刺激が強かった。 「やっぱり、明里ねえさんみたいな人がいいんや」  ぽつんと呟いて自分のなりを見る。薄くて短くて、いい匂いなどちっともしやしない。それが恥ずかしくて、カコは深く深く俯いた。もう一度彼に会いたいなどと考えていた自分がいっそ哀れにすら思えて、カコは足早に店の奥へと戻っていった。 ▽ 「イチ、また会ったな」  カコは驚きのあまりぱっくり口を開いた。  久しぶりに古井戸に水を汲みに行かされた日、いつものように店の裏の道をえっちらおっちら歩いていると、何か大きな影に通せんぼをされた。怯えながら顔を上げると、そこにはあの日と同じ格好をしたコウが立っていた。 「あ、お、お久しゅうございます」 「元気にしていたか」 「はい。あの、あの、明里ねえさんに御用でしょうか?」 「明里・・・・・・ああ、あの天神か。いいや、今日はおまえに会いに来たんだ」  カコはふわふわと自分の心が舞い上がっているのを感じた。以前明里天神と一緒にいるところを見て落ち込んでいたことなどすっかり頭から飛んでしまった。もう一度こうして会えただけでも幸せなのに、その上彼はわざわざ自分に会いに来てくれたのだという。 「うちに何の御用でしょう?」  どきどきしながら尋ねると、男は何かを思案するように顎に手を当てた。そしてごそごそと懐を漁り、可愛らしい風車を取り出した。 「これをやろう。外の露店で買ったものだ」 「わあ・・・・・・!」  赤い千代紙がいっそう可愛らしく、カコは生まれて初めての誰かからの贈り物に目を輝かせた。その顔をじっと見て彼が同じように顔を緩ませていたことには気付かず、心の底からお礼の言葉を口にした。 「イチは、俺の探している妹に似ている」 「いもうと?」 「俺は妹を探して旅をしている。おまえの笑った顔が特に妹にそっくりで、懐かしくてな」  カコは思わず顔を赤くした。見上げたコウが、あまりにも優しい目をしていたからだ。 「今日はイチの話を聞きにきた。何でもいい、おまえの話を聞かせてくれ」 「うちの、はなし?」 「そうだ。生まれはどこだ? ここでの生活はどうだ」  カコはもごもごと口籠ったが、コウが彼女と目線を合わすようにしゃがみこんだので何か言わざるをえなくなった。 「うちは、うちの、うちの本当の名前は、イチじゃなくてカコです」 「カコ。そうか、カコか」 「うちにはにいちゃんが三人と弟が一人いて、にいちゃんたちは・・・・・・にいちゃんたちは怒ると怖かったけど力持ちで、弟のサトは、すごく可愛くて」  故郷の話をしようとするのだが、どうしても幼い頃から世話をしていた弟の話に偏ってしまう。カコの知っている風景といえば、すぐに痩せてしまう田畑と隙間風が通り抜ける家の中、それから大人しく自分に体を預けるサトの小さくて丸い頭。思い出そうとすればするほど幼い弟のことしか浮かばなかった。 「弟を可愛がっていたんだな」 「はい! でも、うちがいなくなって、誰がサトの面倒を見てるんか心配なんです。サトのお世話はうちの仕事やったから」  兄たちの誰かが、毎晩あのほこほこと温かいサトと一緒に寝ているんだろうか。カコは素直にいいなあと思いながら、手の中の風車を見つめた。目の前でコウが物憂げに視線を逸らしたことには気付かなかった。 「ここでの暮らしは楽しくないけど、でも、うちはここにいるしかないから」  もしも店を追い出されたら、身寄りのないカコは野たれ死にするしかなくなる。特別生に執着があるというわけではなかったが、道端で犬や烏の餌になるのは嫌だった。俯くと地面に置いてしまっている水桶が目に入って、カコは唐突にこれを店に持って帰らなければいけないことを思い出した。 「あの、これ、持って帰らないと怒られるから」 「・・・・・・ああ、なら、店まで俺が持とう」  前回と同じようにひょいと棒を肩に担いだコウは、前に立ってすたすた歩き出す。その広い背中を追いかけながら、カコは再び手の中の小さな風車をしげしげと眺めた。これを、この人が自分のために買って来てくれた。 「気に入ったようでよかった」  後ろは振り向かずぽんとそんなことを言うコウに、ふふふと笑う。宝物にしようと心に決めて、カコは足どり軽くコウの後ろを歩いた。  
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加