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花街の朝は遅い。扇屋もまた例外なく、正午を回った時間になってようやくざわざわと人が動き出していた。
「イチ、今日は早めに奥に引っ込んどき」
湯浴みを終え、髪の手入れをしていた明里天神は後ろに控えるカコに突然そんなことを言った。同じ部屋にいた葵にも、同じ言葉を掛けている。途端に眉を吊り上げた葵が、非難がましく口を開いた。
「何でですか? イチはともかく、何でうちまで引っ込まなあかんのですか?」
「ええから、今日は二人とも奥にいとき」
カコとしては早めに仕事をあがらせてもらえるというのは願ってもないことなので、素直に頷いた。しかし、葵は何故か納得がいっていないようだった。
「姐さん、お願いです、今日はうちもお側に置いてください。こないだあんお方と――」
「ええ加減にしぃ」
綺麗な人が怒ると迫力があるというのは本当なのだな、とカコは縮みあがりながら思った。明里天神の冷たい眼差しと声が、きんと音を立てて葵を切り裂いている。
「うちの言うことが聞けへんのやったら、今すぐここから出て行き」
「ち、ちがっ」
「葵、よぉ聞いときや」
明里天神は顔を強張らせる葵を睨みつけながら、念を押すように言った。
「あのお人はあかん」
あのお人とは誰のことだろう。内心首を傾げるカコとは違いはっきり誰のことか分かっているらしい葵は、珍しく強い目で明里天神を睨み返している。しかし、やがては俯いてはいと返事をした。
それから葵の機嫌は最高潮に悪く、カコは何度も当たられてとても居心地の悪い思いをした。終いには腹いせに縁側から突き落とされて中庭に落っこち、ひらひらと錦鯉の泳ぐ池に頭から突っ込むことになった。びしょ濡れになったカコは、誰からも手を貸してもらえないまま池から這い上がり、嫌な笑いを向けられながらしょんぼり着替えに向かった。
もそもそと新しい着物に着替えていると、ことんと畳の上に赤い風車が落ちる。慌てて拾い上げ、壊れていないか息を吹きかけて確認し、ほっと息を吐いた。
「・・・・・・コウさま」
その名を口にするだけで胸が温かくなり、自然と口角が上がる。こんな感覚は初めてだった。カコは、あのコウという男のことをとても好ましいと感じるようになっていた。それは父や兄を慕う気持ちに似ているようで、しかしそれよりもどこか仄暗いものを内包している。あの日の、明里天神と寄り添うように座っていた後ろ姿はいまだにちくちくとカコの胸を刺したが、その後彼と穏やかに語らえたことを思い出すと、何とも言えない優越感が湧き上がってくるのだった。
ほう、と息を吐き出したカコは、いつの間にかぼんやりしてしまっていた自分に気付き慌てて立ち上がる。手にしていた風車は衣装箱の中に大切に忍ばせて、まるで宝箱のようにそっと蓋を閉めた。
また、お会いできるだろうか。カコは、コウの低い声や頭を撫でてくれた大きくて温かい手を思い出してほこほこしながら、仕事に戻った。
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