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「ちょっとええ?」
一日の仕事を終え、着替えのために部屋に戻ろうとしていたカコは、目の前で仁王立ちになって行く手を塞いでいる葵にたちまち震え上がった。すっかり挙動不審になっているカコを、葵はふんと鼻で笑う。
「いくらなんでもまだ寝えへんやろ。ええから先着替え」
蚊の鳴くような声で返事をしたカコは、黙って後ろをついてくる葵に泣きそうになった。今度は何をされるんだろうという恐怖が身体を固くさせ、足を縺れさせる。
「何もたもたしてるん、ちゃっちゃと歩いて」
「は、はい」
いつも複数人の少女たちで雑魚寝している部屋へと向かいながら、カコは不機嫌そうな葵がいつ爆発するかとひやひやした。とっくに着替え終えている葵は、必死に着物を脱ぐカコの隣でつまらなさそうに壁に背を預けている。帯を結ぶのに手こずっていると、いつの間にかすぐ近くに移動していたらしい葵の訝しげな声がした。
「これ、どこでもらったん?」
彼女の手の中には、大切にしまっておいたはずのあの風車があった。はっと息を飲んだカコは、反射的に取り返そうと手を伸ばす。
「ちょっ、何なん、こっち来んといて!」
どん、と押されて尻餅をついたカコはしかし、懲りずに手を伸ばし続ける。半ば乗っかられるような体勢になった葵は、風車を持っている右手を下に畳に倒れ込んだ。
「っ、痛ッ!」
ばき、と嫌な音がした。細い竹が折れてしまい、風が当たるとからからと楽しげに回っていた部分が無惨にへしゃげてしまっている。ショックのあまり呆然とするカコを余所に、立ち上がった葵は怒りに燃えていた。その手には血が滲んでいて、どうやら折れた竹で怪我をしたらしい。
「うちに怪我させるやなんてどういうつもり? どこまでずうずうしいん!」
がっと腹を蹴られて、カコの細い身体は簡単に弾け飛ぶ。壁に頭をぶつけ、くたりと力が抜けた。
「こんな怪我嫌や、汚い。もしあんお人に見られたら・・・・・・」
葵がぶつぶつと呟く声がしばらく聞こえていたが、やがて出てったのか部屋はしんと静かになる。カコはぼんやりした頭で、意味も無く遠くから聞こえてくる女たちの笑い声に耳を澄ませた。脱力感がひどく、身体を起こす気にもなれない。そうして壁に凭れぐったり身体を投げ出すカコに、頭上から突然にゅっと手が伸びてきた。
「カコ」
聞き覚えのある低く耳をくすぐる声に、カコは弾かれたように顔を上げた。
「怪我はないか」
そこには、いつの間にかコウが立っていた。
彼は無表情のまま、未だへたり込んでいるカコの前にすっとしゃがみ込む。そして状況が理解出来ずに固まるカコを見て、苦く笑った。
「頭を打っていただろう。気はしっかりしているか」
「っ、は、はい、しっかりしています」
温かい手が、まるで労わるかのようにするりとカコの頭を撫でる。真っ赤になったカコは、はっと我に返って姿勢を正した。
「あのっ、あの、コウさまはどうしてここに?」
「声がして、少し気になってな」
コウは、その場に腰を下ろし胡座をかいた。心配して来てくれたのだろうか。カコは久しぶりに見るコウの顔に、思わずじいっと魅入ってしまう。突然黙り込んだことを怪訝に思ったのか、彼は眉をひそめた後ひょいと少し離れたところに落ちているへしゃげた風車を拾った。
「あっ、それは・・・・・・」
彼は何も言わず、葵の手の中で壊れてしまった風車をまじまじと見つめている。
「も、もうしわけありません、せっかくいただいたのに壊してしまいました。すみません、すみません」
カコは真っ青になり、泣きそうになりながら畳に手をついて謝った。大切にしようと思っていたのに、上手くできると思っていたのに、どうして自分はこうなんだろう。この人に嫌われるくらいなら、もういっそ死んでしまった方がましだとすら思った。
「そんなに謝らなくていい、もともと脆いものなのだから仕方がないさ。悲しいことだが、壊してしまうのも仕方がない」
それは慰めているというよりも、まるで自分に言い聞かせているかのような、諦めの色の濃い言葉だった。カコはおろおろした後、感情の読めない目でぼんやり風車を眺めているコウに向かって思い切って口を開いた。
「う、う、うち、あの、それ、うちの宝物なんです。風で回らなくてもいいんです、壊れていてもいいんです。コウさまのくれたその風車が、うちの宝物なんです」
コウは俯きがちに一生懸命言葉を紡ぐカコを、まるで奇妙な生き物を見るかのようにまじまじと見て、こてんと首を傾げる。
「だが、壊れていたらつまらないだろう。壊れてしまったものを大切にして何になる」
「いいえ、いいえ、うちが大切にしたいんです。壊れていても、一緒にいたいんです」
「・・・・・・そうか、そういうものか」
ぽつりとそう零したコウは、ふっと表情を緩めた。
「カコは物知りだな」
そう言って差し出された、相変わらずへしゃげてしまっている風車。カコはそれを大切に受け取って、ふんわりと笑った。するとまたするりと頭を撫でられて、思わず赤面する。
「風車を見ると、小さい頃に妹と一緒に見たでかい月を思い出す。カコは、まるでこの世の終わりみたいにでかい月を見たことがあるか」
カコは、妓楼の二階から時折見える石ころのように小さな月を思い浮かべながら首を横に振った。
「いつか、見てみるといい。きっと忘れられない夜になる」
この世の終わりのように大きな月を背にするコウは、おそらくカコが今まで生きてきて目にしたものの中でも一等美しいに違いなかった。忘れられない夜になるというのなら、彼と一緒の思い出が欲しかった。
「こ、コウさまと、一緒に見たいです」
「俺と?」
「はい。いつか、一緒に、月を」
コウは緊張のあまり震えるカコをじっと見つめてから、ただ一言そうだなと言った。それは相変わらずあまり感情の色のない声だったが、僅かに噛み締めるような響きがあった。カコは胸の内にじわじわと込み上げる喜びを持て余し、改めて手の中の風車を見つめる。つい先ほどまで感じていたはずの深い悲しみは、今やすっかり鳴りを潜めていた。
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