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「イチ、こっちに」
「は、はい」
その日カコは、珍しく昼間から体調を崩して寝込んでいる明里天神の世話をしていた。布団の上に体を起こしている彼女には、化粧もせず飾り気もないのに、相変わらず透き通るような美しさがあった。もたもたと水の準備をするカコをじっと見ていた明里天神は、唐突に口を開いた。
「ええか、あんたはな、とにかく要領が悪い」
カコは、ようやく注ぎ終わった水をおずおずと彼女に差し出した。
「もうちょっと相手さんの気持ち考えて、しゃきしゃき動かなあかん。あんたも、誰でも彼でも苛つかれっぱなしは嫌やろ」
「ど、どうやったら、うちもねえさんみたいになれますか」
彼女はまじまじとカコを見て、ふっと目を細めた。
「それは無理や。うちがうち以上になれへんのとおんなじで、イチはイチ以上にはなれへん。それでも、みんなちょっとでも他人さんによう見てもらお思て努力するんや。あんたももっと賢ならなあかん」
賢くなれ賢くなれと、彼女はよくカコに口にした。明里天神はこの扇屋でも指折りの美人で、そして唯一、優しいかどうかは別としてカコのために言葉をくれる人だった。どうすればもっと賢くなれるんだろうと真剣に考えていると、一口水を飲んだ彼女がふうとため息をついた。
「イチは気ぃきかへんし、葵ももっと深う考えることを覚えなあかん。よりにもよってあのお人やなんて」
「あの、あの、あのお人って誰のことですか」
「あんたは知らんやろうけど、最近よくうちに来はる人や。あの子は夢中になってるみたいやけど、うちはどうにもぞっとして」
贔屓にしてくれてはる旦那さんにこんなん言うたらあかんのやけどね、と彼女は静かに言った。カコはいまいち意味が分からず首を傾げる。
「あのお人は不幸を連れてくる。葵も男を見る目がないわ」
「あ、葵ねえさんは、そのお人のことが好きなんですか?」
「そうやろね。確かに好いたお人の前では周りが見えへんなるもんやけど、あの子のあれは特にひどいわ」
葵には、好いている男がいる。カコにはそれが衝撃で、思わず身を乗り出した。
「人を好きになったら、周りが見えなくなるんですか」
「まあ、イチにはまだ早い話や」
「人を、人を好きになると、どうなりますか?」
明里天神は少し煩わしそうに、手にしていた水差しをカコに押し付けた。しかしそれでも興味津々に彼女の言葉を待ち続けるカコに、ため息をついた。
「・・・・・・人を好きになるいうんは、苦しむことや」
「苦しむ?」
「苦しんで苦しんで、ほんの少ぉし嬉しいことがあっては苦しんで。そういうもんや」
明里天神は、そう言ったきりじいっと布団に目を落としている。カコは、人を好きになるというのはそんなに苦しいものなのかと慄いた。
「もうちょっと休むから、あんたも仕事に戻り」
「は、い」
そんなに苦しいものならば、きっと自分がコウに抱く気持ちは恋心などではない。カコは、コウに出会う度にふわふわと軽くなる心を思い出して顔を緩ませる。彼女の言う通り、自分には早い話だったなと思った。
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