月と恋々

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 小綺麗だがどこか薄暗い、そんな建物からざわざわと女の声が聞こえてくる。ここは花街、男達が夜な夜な春を求めてやってくる陽の光の届かない場所。煌びやかに着飾った女達はしかし、暗く重い過去を持つ者が多い。  中でもカコの働く扇屋には、それぞれ里から売り飛ばされ血の滲むような努力をしてのし上がってきた、一筋縄ではいかない女達が集まっていた。皆一様に美しく強かで、店で一番下っ端のカコはいつでも肩身が狭く、つらい目を見ることも多かった。 「イチ! いつまで待たせるんや、ほんまにとろくさいな。はよ持ってき!」  女達はいつでもこぞってカコをこき使った。イチ、というのはこの店に来てからカコが貰った名だ。カコ自身ははまるで犬の名前のようなそれを気に入っていなかったが、街の者は皆カコをその名で呼んだ。  生まれた時から小柄で身体も弱かったカコは、この扇屋に連れられた当初からちゃんと使い物になるのかとここの女主人に煙たがられていた。  ただ、カコは自分の辛抱強さには自信があった。ひどい折檻を受けた時も泣かなかったし、怪我をしても熱が出ても仕事は決して休まなかった。しかし元来のおっとりのんびりとした性格と要領の悪さが相まって、周囲の者には苛つかれっぱなしの毎日だった。 「あ、あ、あの、どの帯を持ってきたらええですか?」  数人で姦しく新しい着物を合わせていた年頃の少女たちが、戸口で所在なさげに立ち尽くすカコを一斉に睨んだ。適当に着物に合う帯を選んでこいと言われて部屋を出たはいいものの、どれがいいのか分からず結局とんぼ返りをしたのだ。 「もうええ、自分で選んだ方が早いわ。あんたは水でも汲みに行ってき、日が沈むまでに戻ってこんかったら姐さん方に言いつけるから」  水を汲んでこいというのは、店から随分離れた場所にある古い井戸まで行って、そこから水を汲み上げて帰ってこいという意味だ。普通は下男の仕事だが、カコは何故かこの仕事をよく請け負わされた。  夕方、開店の準備に追われる花街はどこもかしこも騒めいている。店の裏の道しか通ってはいけないと言いつけられているカコは、水を汲みに行かされる度に天秤棒に吊り提げた二つの桶を気にしながら細い路地をえっちらおっちら進むことになる。時間はかかるし棒が肩に食い込んで痛いしで散々な目に合うのだが、女達は勿論それを分かっていて、この夕刻を見計らっては水を汲みにいけと言いつけるのだった。 「・・・・・・行ってまいります」  カコは色々な言葉をぐっと飲み込んで頭を下げた。鬱陶しそうな視線に背を向けて、水場の方へ向かう。しばらくするとまた背後から楽しそうな声が聞こえてきて、カコはしんと静かな心のまま無心に足を動かした。  ここの女たちはみな、美しく着飾ることを生きがいのようにしている。店から買い与えられた着物の何がそんなに嬉しいのか、カコには全く分からなかった。いつだって、なぜあんなに楽しそうにしているのか、なぜ自分はああなれないのか、カコには何も分からないのだった。  いつものように桶を担いで歩き出すと、その重さがずっしりと肩にのしかかった。桶だけでもそれなりに重さがあって、これに水を入れると細っこいカコの足元はふらふらと覚束ないものになってしまう。それでも、行かねばならなかった。
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