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闇からの来訪者
「フィンク。見送りはもう、この辺りで良い。そろそろハーウェインを出てしまう」
カディナ国へはエルヴァルト自ら向かうことになった。
竜族の中にも、竜の姿に変じることができない者もいるし、獣人たちはそもそも空を飛べない者がほとんだという。そのため、以前カディナに奪還戦を仕掛けた時は、人と同じく騎獣を使って軍を進めたらしい。しかし、今回は話し合いが主目的だからと、精鋭――竜に変じられる者たちだけで一気に空を駆けるという。
休憩のために降り立った、国境沿いの街の近くで人型に戻ったエルヴァルトはそう言ってフィンクに笑って見せた。城に戻る時はジルトたちが付き添ってくれることになっているが、離れる時間が寂しく思えて、フィンクはエルヴァルトの外套の裾を掴んでしまった。
「……あの、おれの故国のことで……本当にたくさん、ご迷惑をおかけして――」
「気にするな。私も、この契機に乗じようとしているのだからな」
ご無事で、と小さな声で返したフィンクを、エルヴァルトが抱き寄せてきた。
「エルヴァルト、皆さんがいらっしゃるので……!」
「静かに。――森の様子がおかしい。ジルト! フィンクを連れて、もう行け」
分かりました、と頭を下げたジルトへとフィンクは引き渡される。
「フィンク。帰還したら、菓子祭りを行うぞ。楽しみに待っていろ」
「エルヴァルト!」
魔物が姿を現したようです、と哨戒に当たっていたという護衛が戻ってきた。
「あれらは陽の光りが届かない、闇の底にいるものだ。こんな日中に、しかも森とはいえ街の近くに姿を見せるのはおかしい」
「何者かが、彼らを誘導した可能性もあるのでは」
エルヴァルトの呟きに、フィンクの傍についていたジルトが答える。彼らの視線は、兵士たちによってしっかりと捕縛されている獣人の少年へと向けられた。
「俺じゃない! あいつらのエサは、それこそ俺たちなんだぞ?! あいつらとまともに戦えるのは、竜族くらいじゃないか」
「我らとて無事に済むとは限らん。カディナに向かうのに、異能を行使するのは力の無駄遣いだが……気を抜けば、殺される」
獣人の少年の顔が、一気に青くなったのがフィンクにも分かった。船の上に連れ去られた時からも思っていたが、少年は嘘やごまかしを言える性格には到底思えない。
それよりも、竜族ですら無事とは限らないという程の、恐ろしい魔物がいるのだろうか。フィンクが息をのんだのと時を同じくして、「飛べ!」とエルヴァルトが怒号を発した。強いその声に、即時竜族たちは瞬時に竜の姿を取ると、めいめいが中空へと飛び上がる。フィンクはジルトにしっかりと抱えられて、他の竜たちと同じく空の人となった。普段激昂することのないエルヴァルトの怒号に、フィンクは緊急事態なのだと息をのむ。
「あれが……魔物?」
森の中から、フィンクたちに向かって飛びかかろうと現れ出でたのは、小さな竜ほどはある不思議な生き物だった。竜に似ているが、何故か輪郭は黒くぼやけていて、深く割けた口には大きな鋭い牙が生えそろっているのが空からでも分かる。全体的に胴体は太く、四つ足は重い胴体を支えるのに手いっぱい、といった感じで短く腹が地面についていそうだ。これが、どういう風に恐ろしい魔物なのか分からないのが恐ろしくて、フィンクの緊張は強まっていく。
しかし、魔物の方も森の外へと出たのはいいものの、どうすれば良いのか分からないのか、その場でじっと動かなくなった。その間に、黒い竜――エルヴァルトが竜の姿で咆哮を上げた。ジルトたちがその声に応えて、フィンクを抱えたまま城がある方へと向き直る。フィンクも、魔物は怖いけれど――じっと動けなくなった様子が気になって、「ジルトさん」と声をかけた。さらに森の中から起こった異音に竜たちが警戒を強める中、ジルトはフィンクの呼びかけに反応することなく城へと向かって羽ばたいて――失敗した。
「ジルトさん?!」
竜が、落ちる。そんな事態に陥ったのは初めてでフィンクは必死にジルトの名を呼ぶ。最後になんとかジルトがもがきながら羽ばたいたことで地面への激突は免れたが、竜から人へと戻ったジルトはフィンクを守りながらも息は荒く、やがて膝をついて地面へと倒れ伏してしまった。
「ジルトさん、大丈夫ですか?! ……竜のみんなが――エルヴァルト……エルヴァルト!!!」
フィンクの騎士だけではなく、空へと逃れていた竜たちが次々に落ちていく。そして、黒い竜も。ジルトのことが気になるのはもちろん、エルヴァルトすら抗えず地に落ちたのが信じられない。
無我夢中で駆けつけようとしたフィンクの前に現れたのは、あの竜が潰れたような魔物だった。魔物は、何も話すことはできないらしい。その両眼は潰れているのか開くこともない。のそりと一歩ずつ、ゆっくりと動いている。まるで笑っているみたいな、大きな魔物の口――恐ろしいのに、フィンクの身体からも力が抜けていく。立っているのが辛くなるくらい、心地よい香りがしてきた。それは急激な眠りを誘い、ずるずると――闇に、引きずり込んでいく。
「フィンク殿下」
闇は、その柔らかな一言で急激に弾けた。
「どうされましたか? お茶の時間は、眠くなってしまいますものね」
「あの……どちらさま、でしょうか」
「いやだ。何かわたくし、ご気分を害することを申しましたか?」
フィンクの視界に映るだけでも、とにかく様々な種類の花々が美しく咲きほころぶ庭園に、フィンクはいた。小さなテーブルを挟んで、目の前には可愛らしい顔をした美しい令嬢が、微笑みながらフィンクを見ている。
「わたくしたち、許嫁ではありませんか」
「……いいなずけ?」
夢にしても、随分とお粗末だ。フィンクが王の子として扱われたのは、『神竜』への生贄として選ばれた時だけだったし、本当ならあの半地下の牢の中で一生を終えるはずだった。そんなフィンクにとって、伴侶はエルヴァルト一人しか存在しえない。ふわふわとして気持ちよい場所だが、でも、ここは自分のいたい場所ではないことだけは、はっきりと分かる。
「おれにとって、一生傍にいたいと思うのは――エルヴァルトだけです」
「……エルヴァルト? 聞いたこともないお名前だわ。それより、このお茶。お花の、とっても良い香りがするの。青い色をしておりますのよ、美しいでしょう? フィンク殿下も、ぜひ」
召し上がれ、と美しい令嬢が微笑む。「頂けません」とフィンクは静かに、きっぱりと答えた。そうして席を立つ。ここはどこか分からないでいたが、見回した先に見える建物は、カディナ城そのものに見える。
(これは……夢、なのだろうか)
試しに頬を抓るが、痛い。自分は確か、ハーウェインの国境沿いでエルヴァルトたちを見送ろうとして――急に、竜たちが落ちていき、自分自身も意識を失ったらしいところまでは、覚えている。
「フィンクさま」
「……ヨア?」
夢の中でも、親しい者に会えたことにフィンクはほっとした。ヨアは令嬢を見ることなく、フィンクへと歩を進める。しかし、フィンクの知っているヨアとは何かが違う。明確な怒りを、こちらに向けている気がする。
「化け物! お前のせいで、竜族は滅ぶ」
自分が『化け物』なのは、分かっているつもりだった。そして、ヨアは――竜族のみんなはきっと、そんなことをフィンクに言ったりはしない。そう信じているのに、大切な人からそう詰られると、心が悲鳴を上げそうになる。この場から逃げ出したいのを堪えて、必死に足をこの場へと留める。ヨアの大きな瞳が、蔑んだ色を含んでフィンクを見上げてくる。そこに何か救いはないか、探そうとする弱い己をフィンクは叱咤した。
「……竜族は、滅ばない」
力をふり絞り、声を震わせず、きっぱりと言い切る。それでも、少年の目には何の感情も戻らない。それこそが、フィンクの知っているヨアとは別人に思えた。ヨアは、あの谷底にいた間も決して諦めず自分を保ち続けていたのだ。
「フィンク殿下」
そんな緊張を強いられる今、横から声をかけられてフィンクは驚きの声を上げかけた。そちらへと視線をやると、あの美しい令嬢がフィンクに向かって微笑んでいる。「お茶を」と令嬢が微笑んだ。
「お二人の仲直りの証に。特別なお花で作ったお茶なの。それを召し上がれば、辛いことは忘れられるわ。……現実は、辛いもの」
令嬢が心配げな顔でフィンクに話しかけてくる。「あなたも、ぜひおすすめしてさし上げて」と令嬢が笑いかけると、無表情のヨアがティーカップを持ち、フィンクへと無言で押しやった。フィンクは、ヨアから渡されたティーカップを両手で支え持つ。正しいかは分からないけれど、ふんわりと良い香りがする青い液体が揺れるそのカップを――フィンクは地面へと落とした。
『せっかく、楽しい夢をご用意しましたのに』
令嬢の言葉と共に、靄が晴れていった。フィンクの視界は、元の景色へと戻っていく。その、景色は。
「……竜の、みんな……が」
エルヴァルトと共にハーウェインの国境まで来て、突然竜たちが地面へと落ちていく現実へと立ち戻った。
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