黒竜の問いかけ

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黒竜の問いかけ

『わたしの愛する者。なにを、願う?』  フィンクの目の前に、黒い竜が現れた。これは、夢だ。あの物語の風景の中に、自分が登場する――あの物語の主人公となるのを何度も夢見てきたので、これは夢だとフィンクにはすぐに分かった。  物語に出てくる黒い竜は優しくて、とても勇敢だった。まるで、あの物語の主人公である王の子になったみたいだ。フィンクは嬉しくて笑うと、黒い竜はフィンクへと顔を寄せてきた。 『おれは……あなたと一緒に旅をする、つばさがほしかった。本当は、ずっと……あそこから、飛び出して……竜になって、あなたと一緒に行きたかったのかも』  そんな言葉が、勝手にするすると出てくる。  黒竜が、目をとじた。エルヴァルトに似ているけれど、違う。竜たちにも一頭一頭特徴がある。目の前にいる王の子の黒竜には、額に銀色に光る鱗があり、顔つきもエルヴァルトよりいささか優しく感じる。 『それはすでに、お前の血の中に。……わたしもずっと、お前をあの忌まわしい場所から連れ出したかった』 『ありがとう』  フィンクは竜の言葉の意味がよく分からないもののニコニコとしていたが、ふとあることに思い至った。 『あの……! おれが忘れてしまったエルヴァルトさまとの記憶を、思い出したいと言ったら……叶えてくれますか?』  誰だ、そいつは。黒い竜がちょっと、嫌そうな顔をした。竜の顔の表情は分かりにくいが、目つきと尻尾で何となく分かる。 『……おれの、……ええと、番い、です』  フィンクが照れ笑いをしながら返すと、竜はゆっくりと顔をフィンクから離し、立ち上がった。 『もちろん、できる。だがそれで、お前が幸せになれるのか、わたしには分からない。少なくとも、わたしのことは――今みたいに、はっきりとは思い出せなくなる。自分がそうと思い込んでいた物語から、飛び出す覚悟はあるか?』 『……物語から、飛び出す……覚悟?』  黒い竜は不思議なことを言う。でも、これは夢――そう分かっているフィンクは、いつになく自信を持って頷いていた。 『あります!』  そうか。  黒い竜は嘆息をつきながら人の姿を取る。それは自分自身で――フィンクは、勢いよく飛び起きた。   (――夢?)   ふわふわとしていた気持ちは一気になくなっていた。自分の手許に視線をやる。それは、間違いなく己の手だ――もう成人間近の、己の手。夢だと思っていた場所に、自分がいる。むしろ、どこまでが夢だったのか分からなくなり、フィンクは途方に暮れた。 「……フィンク?」  低い男の声で名を呼ばれて、フィンクは寝台の上で後退った。カーテンがかけられた窓の向こうは、ほんのりと薄明るい。今から夜明けを迎える頃なのだろう。声の方から手が伸びてきて、あっさりとフィンクは寝台の中へと引き戻されてしまった。声の主は眠いのか、フィンクを抱きしめるとそのまま眠りにつく。ただ、身をかたくしているフィンクに気づいたのか、そっと顔を寄せて、柔らかな口づけをしてきた。  ――竜が鼻先のあたりを寄せるのは、大好きって意味なんだって、本当ですか。  夢の中で自分が、嬉しそうに誰かに問いかけていた。他にも、夢で見たことがたくさんある。この身体に触れてきた、優しい手のひらも。身体を拓かれたことも。 (……エルヴァルト……様と、おれが……なぜ)  夢の中のこととして覚えている気はするのに、頭が、感情がついて行かない。彼の隣にいるべきは、自分ではない。それは、あの日――何気なくエルヴァルトのところに飛んだ時に、彼が住む世界を知って理解したはずだった。  獣人たちを、あの中から助けることを、自分のやるべきことと定めていたのにとうとう露見してしまった。無理やり、青い色をした液体を神官に飲まされたはずだ。そこから今に至るまで、違う自分が――いや、幼い頃の己として、ずっと夢を見ていた気分でいた。その夢が、唐突に終わってしまったのか。 (だって、おれは……)  ずっと見ていた夢の中で、フィンクは幸せだった。竜たちに囲まれて、美味しくて温かい食事をとって。何より、エルヴァルトに再会して楽しく笑いあう日々を過ごしていた。  やがて寝息を立て始めたエルヴァルトの手からそっと逃れると、フィンクは一人、寝台から下りた。近くに置かれた小さなテーブルには、『夢の中の自分』が気に入っていたたくさんの竜が出てくる物語の本が置かれている。その表紙に触れた時、ぞわりと背に気持ち悪い感触が走った。 (なんだろう?)  なるべく、物音を立てないように気を付ける。何か背にくっついているのかと手で背中に触れると、ふわふわとしたものが指に触れた。引っ張ると、痛い。 「……これは」  引っ張って抜けたものを見ると、それはまさしく鳥の羽根だった。それが自分の背に、生えているのかもしれない――そう思うと、ぎょっとする。 (……やはり、おれは……違う)  夢の中の黒い竜に願ったところで、自分は竜にはなれなかった。むしろ――故国の者たちの言う『化け物』の方が正しかったのかもしれない。  いてもたってもいられず部屋から出ようとしたものの、扉を開いてすぐ、ぽかんとした顔でこちらを見ている青い髪の子どもに気づいて――フィンクは、困り果てた。
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