言葉なき肯定

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言葉なき肯定

「フィンク。アイリーンは変なことをしてこなかったか?」 「アイリーン様が、ですか?」  フィンクの部屋だという清潔で明るい室内には、眉根を寄せたエルヴァルトがいる。アイリーンと並んで立つ姿は一幅の絵みたいで、かつて見た光景が浮かぶ。そうして、アイリーンからフィンクに関することを聞かされているらしいエルヴァルトの表情はずっと硬かった。  ジルトはアイリーンと共に部屋を退出し、ヨアもお茶を運んできてくれた後はすぐに出て行ってしまった。エルヴァルトと二人きりとなり緊張していると、エルヴァルトがフィンクを真っすぐに見ながら口を開いた。 「人の体のことまでは、私も完璧に知っているわけではないから一応呼んだが。アイリーン……レウナート家は代々、神手と結ばれてきた家系。神手と特別な関係になる術か何かがあるとしたら……大問題だ」 「大問題、ですか」  アイリーンたちとの会話を、思い出してみる。ジルトやヨア、そして彼女の言葉は今、ここにいるフィンクに向けられた言葉なのだと感じることができた。こんな風にエルヴァルトと隣り合って座るのも、さっきよりもずっと居心地よく感じる気がする。 「あの……エルヴァルト様と、結ばれる夢を見ていました。とてもふわふわして、心地よかった。でも、あれは……もしかして」 「――夢じゃないと、証明すれば良いのか?」  真剣な声。思わず目を丸くしたフィンクは、少しの間固まっていた。意味を問おうと口をはくはくとさせている間に、形の良いエルヴァルトの唇に覆われて、言葉を奪われる。 「……っ、ん」  啄ばむだけに思えた口づけは段々と深まり、どうやって息をすれば良いのかが分からなくなる。少しずつ、身体の力が抜けていくのを感じた頃に、ようやくエルヴァルトの顔が少し離れた。 「……昨日と、口づけのたどたどしさは変わらない。記憶があろうがなかろうが、フィンクはフィンクだな」 「え? ……と、それはどういう意味、ですか?」  たどたどしい、というのは褒められたわけではなさそうだ。フィンクが困り顔になると、エルヴァルトは柔らかな笑みを浮かべてから、フィンクの髪に鼻先を押し当ててきた。そのくすぐったさにフィンクがつい笑うと、今度こそしっかりと力強い腕に抱きしめられていた。 「フィンク。私は、フィンクが大好きだったあの物語に出てくる、竜になれるだろうか。王の子と、生涯を共に過ごしたというあの黒い竜と」  幼かった頃のフィンクが、表紙が擦り切れてページが抜け落ちてしまうまでいつまでも大事にしていたあの物語の、結末。青いままだった世界が、払暁を迎えるシーン。死んだと思われていた王の子は自らの力で仲間を集め、再び黒い竜のもとに戻り、再会した。きっと、物語の黒竜も王の子に顔を寄せたのかな、なんて今は思う。 「エルヴァルト様。おれもずっと、あの物語の王の子になりたかった。勇敢で、賢くて――黒い竜を思いやる、優しい青年に。現実のおれは、何もできなくて逃げ出すことも、戦うこともできなかったけれど……」  エルヴァルトは、フィンクの独白に肯定も否定もしなかった。ただ、耳を傾けてくれていることだけは、分かる。 「もし、今からでも変われるのなら、変わりたいです」 「フィンクが変わる必要もないと思うが……まずは、もう一度私の国に慣れることから、だな」  落胆することも、過剰に励ますこともなくエルヴァルトはそう返すと、もう一度フィンクに優しい口づけをしてくるのだった。 *** 「……おはようございます、エルヴァルト様」  夜明けと共に目が覚めて、フィンクはまだ眠っているエルヴァルトに向かって、そっと声をかけた。ずっと、自分が生きているか確認するためだったひとり言が、誰かと挨拶するための言葉へと変わる。そのくすぐったさに、フィンクは照れながら寝台の上に、ぼうっと座り込んだ。  着替えは、フィンクの従者であるヨアの仕事だと念を押されてしまった。軽率な己の行動で、また小さな少年に悲しい顔をさせるのは辛い。カーテンの向こう側が少しずつ白んでいくのを見て、フィンクは寝台のすぐ傍にある小さなテーブルへと手を伸ばそうとした。不意に、その手首を掴まれる。 「エルヴァルト様?!」 「相変わらず朝が早いな」  小さくあくびをしたエルヴァルトが、上体を起こしながらもフィンクの身体をぐいっと己の方へと抱き寄せてくる。堪えきれずもたれかかってしまったフィンクに口づけてから、エルヴァルトも明るさを増していく窓の外へと視線を向けた。 「朝食まで時間がある。少し、私の散歩に付き合わないか?」 「お散歩、ですか?」  エルヴァルトは精悍な顔つきをしているのに、フィンクを見てくる時の表情はとても優しくて――照れてしまう。しかも、過去の記憶は戻りつつあっても、この国に来た後のことは、まだ曖昧なところが多い。どこへ行くのだろう、と期待をしてしまう。ワクワクとした表情になっているのは自分でも分かったけれど、抑えることは難しい。エルヴァルトは「決まりだな」と笑うと、フィンクの体を、もこもことした暖かな毛皮で包み込んだ。 「エルヴァルト様、扉はあちらですよ?」 「分かっている。フィンク、しっかり私に摑まっていろ」  寝台から降りると、エルヴァルト自身もまだ寝間着のままなのに窓辺へと近づき、カーテンを開いた。顔を出し始めた朝陽は、山々の頂きを赤く染めている。何とも言えず美しい色合いをした薄明の中へと、エルヴァルトはフィンクを連れたまま飛び出し――そのまま、黒い竜へと変じて翼を羽ばたかせた。 (飛んでいる……!)  頬にあたる風は強いけれど、毛皮でしっかり包まれているために、寒くはない。何とか首を巡らせて行く先を見やると、それほど高いところを飛んでいるわけではないからか、竜族たちが目覚め、動き出す様子が見て取れた。 「すごい……!」  これが、物語で王の子が見ていた景色だ。大きな翼なのに、エルヴァルトはとても静かに飛んだ。風を掴み、無駄なく飛んでいるからだが、地上の者たちを無暗に驚かせないためなのかな、と考えてみたりして、フィンクはくすぐったい気持ちになった。やがて集落は途切れ、広々とした草原へと辿り着く。エルヴァルトは何度か羽ばたいてぐるりと草原の周りを巡ってから、段々と飛ぶ速度を落としてゆっくりと草原の上へと降り立った。  丁重な手つきで、地面へと降ろされる。「ありがとうございます!」とエルヴァルトに告げた声が弾んでいた。 「……あ、海が見えます!」  城からはだいぶ離れたのだろう、普段なら見えないはずの海が、遠くに見えた。あの海の上も、エルヴァルトと共に飛んだ記憶が思い浮かぶ。はしゃぐ自分の声――『海が見たい』と言ったフィンクのために、時折エルヴァルトが低く飛んだりもした。ここから見えるものよりもずっと深い、紺碧の海。  立ち尽くすフィンクの傍で、竜のままエルヴァルトが座り込んだ。硬い鱗に覆われた首を寄せてくる。甘えているような仕草が微笑ましい。フィンクが手のひらを差し伸べると、重さを感じさせずエルヴァルトが顎を乗せてきた。明るい陽の下で、エルヴァルトの琥珀色の瞳が輝いて見える。 「エルヴァルト様。おれのためにありがとうございます。……あの、おれ……今まで、たくさん我儘を言ったのではないでしょうか。すべて夢の中のことだと考えこもうとしていたけれど……本当だったんだって思ったら」  ふ、と黒竜が笑った気がした。竜――エルヴァルトは少しフィンクから顔を離して、その鼻先をフィンクの胸元あたりへと押し当ててくる。目を閉じてじっとしている竜の、黒い鱗が描く、細やかな線までがはっきりと分かる。大丈夫、と返してくれた気がした。思い返そうとすると、色んな光景が脳裏をよぎっていく。小さな世界しか知らなかったあの頃そのままの自分にとって、すべてが夢みたいだった。 「おれに笑いかけてくれたのも、悲嘆せずに抱きしめてくれたのも――貴方が初めてでした。あの日、檻の中で消える貴方と離れた後。……どうしても会いたくて、一度だけ貴方のところに飛んだことがあります」  ぱち、と竜の目が開いた。竜の姿でいる間、エルヴァルトは話すことができない。それを良いことに、フィンクは続けた。 「眩しい世界の中にいるエルヴァルト様を見て――おれは、慌てて逃げ帰りました。エルヴァルト様の世界に俺は相応しくないとか、色々言い訳しようとしたけど。おれ、エルヴァルト様を独り占めしたかったのかも……そんな自分が、嫌だったんだ……」  こんな、醜い感情のことまで話すつもりはなかった。つい言ってしまってから、フィンクは笑おうとして失敗した。今度こそ嫌われてしまうかな、と俯く。 「ごめんなさい」 「――どうして、謝る?」  だって、と返そうとしてフィンクは顔を上げた。人の姿に――先ほど出てきた時と同じ、寝衣姿のままでエルヴァルトが立っている。人に戻った彼は苦笑すると、そのままフィンクを抱き寄せてきた。「こんな格好で来るんじゃなかったな……」とぼやく声も、柔らかく感じる。 「独り占めもなにも。フィンクが手を離した時、嫌われたと思った私はどうなるんだ。図体は大きいのに、自分でも情けない限りなのだが」  まあ、いいかとエルヴァルトがフィンクの頭の上で笑った。 「もう、フィンクが何と言おうと――また記憶を失おうが、私の生涯唯一の番いなのだからな」  得意げにそう言うと、竜の王はフィンクの髪に己の顔を埋めてきた。その仕草は――竜族だからこそ、意味がある。そう思うと顔が一気に紅潮した。フィンクが慌てふためいても、エルヴァルトの拘束から解かれることはない。 「記憶を失う前のフィンクも、私のことを好いてくれていたと知れて、嬉しい」 「エルヴァルト様、苦しい」  恥ずかしいのと、ぎゅうぎゅうに抱きしめられて苦しいのと。フィンクが小さな声を出すと、さっとエルヴァルトが離れた。「すまなかった」という声と共に、目の前には再び黒い竜が現れる。さあ、帰ろう。言葉はないけれど、そう言われた気がする。 「エルヴァルト様。少しだけ、お顔を……」  フィンクが呼び止めると、黒い竜は何だ? と言いたげに頭を寄せてくる。すぐ間近に迫った竜の咢に手を添えると、フィンクは細やかな鱗に覆われた形良い額へと、唇を寄せた。
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