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神手の声
「成功しましたか」
突然目に映る世界が変わって呆然とするフィンクの前にいるのは――城の中に装飾品の類などを持ってきた商人だった。それから、フードを目深に被った小柄な人物もいる。
彼らから目を離して視線を動かすと、そこは船の上だった。流れが速く、どんどんと流されていく。幸いにもフィンクの手足は縛られてはいなかった。川の中に飛び込めたら良いが、広い湯舟でもパニックになりかけた自分が、上手く泳ぎ切れる自信は正直ない。何か良い方法はないかと悩んでいるフィンクの身体が揺れた。フードを被っていた人物が座り込んだので、船そのものが揺れたのだ。フィンクの目の前でフードを下ろしたのは――。
「あ……あの時の?」
かつて、フィンクがエルヴァルトの腕輪を渡した獣人の子どもだった。子どもといっても、出会った時はヨアくらいだったはずなのに、背は伸びていてフィンクよりも背が高そうだ。しなやかな体つきが猫科を思わせる。その彼がつけているのは――間違いなく、エルヴァルトの腕輪だ。手を出しても、相手の方が機敏に動くのは間違いない。チャンスは来ないだろうかと緊張し始めたフィンクに、「怪我はないか」と少年が小さな声で話しかけてきた。
「怪我?」
「無理やり、連れてきてしまった。手荒なことをして申し訳なかった」
そう言ってフィンクに向かって、頭を下げてくる。驚いているフィンクをよそに、獣人の少年は自分が纏っていた外套をフィンクの肩にかけながら、商人の男には「この方に触れるな」と釘をさしている。
「……俺たちが真実自由になるためには、神手であるあんたが必要だ。あんたはカディナの第一王子で神手。これ以上ない、交渉のための切り札」
「待って。おれが王の子だって、どうやって知ったんだ?」
こんな時だというのに、フィンクの頭の中であの物語の本のページが勝手に動いていく様が浮かんだ。まるで風に吹かれているように捲れていく――やがて開かれたそのページは。王の子の前に現れた、王国の中に潜んでいた敵たちの登場だった。
「さっさと逃げましょう! 竜どもが……!」
今まで静かだったのに、少しずつ川面に波が立ち始めた。商人が、空を見上げて慌てふためいている。上空を見ると、城がある方から真っすぐにこの船へと向かって急降下してくる竜たちの姿が見えた。真っ先に飛んでくるのは――黒い竜だ。
「ごめん!」
獣人の少年が、腕輪を使ったら。今度はどこに飛ばされるかも分からない。商人の悲鳴に気を取られていた獣人の少年に、フィンクが持ち得る限りの力で思いっきり体当たりをすると、運よく少年から腕輪が抜け落ちた。その合間にも竜たちは降下の速度を緩めない。川面にぶつかるのでは、と心配したフィンクは耐えられず目をつむり、船は巻き起こる風によってまたしても大きく揺れた。
「フィンク、無事か?!」
「――フィンク様、駆けつけるのが遅くなりました!」
エルヴァルトと、ジルトの声。恐る恐る瞼を開いたフィンクの前後を守るように、二人が立った。それほど大きくはない船は大きく揺れ続ける。ジルトが獣人の少年を押さえ、力強い腕で助け起こされたフィンクが見上げた先には、眉根を寄せたエルヴァルトの精悍な顔があった。
「……駆けつけるのが、随分と早いことで」
憎々し気に獣人の少年が漏らすと、「黙れ」と低い声でエルヴァルトが返した。
「よくも私の伴侶を拐してくれたな。しかも、私の腕輪を使って。この腕輪を使っていたということは、貴様がカディナ国で騒動を起こしている盟主だな」
ジルトが、少年の腕から落ちていった腕輪を拾い上げ、エルヴァルトへと渡す。
「お前たちの身分証は間違いのないものだったし、品も問題なかったが市井の人間にしては動きに無駄がなく違和感を覚えた。――行く先を追わせておいたのは正解だった」
エルヴァルトに続けて口を開いたのはジルトだ。獣人の少年は「チッ」と大きく舌打ちをすると、思いっきり船底を蹴って暴れ始めた。またしても揺れ始めた船と、そして川面に落ちる大きな音――フィンクがそちらを向くと、今までいたはずの商人が消えていた。
「あ、落ちて……っ」
「放っておけ。城に帰還する」
エルヴァルトが腕輪を自身の手首に付けなおしているその間にも、ジルトが獣人の少年を船底に押さえつける。体格も膂力もジルトの方が格段に上なのに、死にもの狂いで必死に暴れる少年の鋭い爪がジルトの体を傷つけていく。
「陛下、お早くフィンク様を!」
ピリ、と空気が震えた。それは竜族が竜の姿になるときの合図みたいなものだ。川に落ちた商人のことも、獣人の少年も、ジルトのことも――どうにかしたくて。必死になったフィンクがようやく放った言葉は、またしても「待って!」だった。必死に出したフィンクの声は、いつもなら力もなく、誰にも聞いてもらえないし届かない。しかし、今度は、彼らの動きを止めることができた。
「あの……ジルトさんを傷つけるの、やめてください。おれの騎士なので……! お話があるのなら、おれは逃げずに聞きます。でも、ハーウェインのお城で、です。おれにも、突然消えたらその……いろいろと事情があるので! それから落ちちゃった商人さんを探しに行きます。エルヴァルト様は先に戻っててくださ……」
「落ちた人間を拾えばいいのだな? 危険なことはフィンクが自らやらなくていい」
え、あの、とフィンクがあたふたとしていると、エルヴァルトの手のひらがフィンクの頭を覆ってくる。獣人の少年は目をまん丸くして、フィンクをじっと見てきた。ジルトも、あまり表情は動いていないものの、驚いている――気がする。
やはり自分が変な声を出したせいかも、と恥ずかしく思っていると、くしゃくしゃとエルヴァルトの手で髪をかき混ぜられた。そうして、あのピリっとした空気を感じる。夕焼けに染まる空へと向かって広がった黒翼は大きく羽ばたいて、フィンクは一気に中空へといた。
竜になったエルヴァルトによってしっかりと抱えられているので、不安は微塵も感じられない。エルヴァルトは空で待機していたらしい他の竜たちに何事かを告げると、竜たちは返事をしてすぐに急降下を始めた。船の小ささもあって、王の合図が出るまで空で待機していたのだとフィンクはようやく気づいた。そして、彼らが落ちた商人を捜索するらしい。彼らと入れ替わってジルトが竜の姿になり、飛び立つのが見えた。
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